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【シリーズ連載・Guilty】先輩、私がなんとかします! #5(最終話)


「子供らしい子供生活を送っていなかったこともお見受けしました。だから女の人相手に身体で遊んで…そんなことよりも…もっと良い、別の遊びがあるはずですから」
「結構ストレートに言うね…」
「もったいないです。野島さんは仕事もとても出来ますし、優しい良い人です。それなのにまるで…誤魔化しているみたいです」
「誤魔化す?」
「何ていう…その、例えばアルコールとかドラッグとか、頭を麻痺させるほんの一瞬の快楽のためにそんなことしている…何かから逃げるために。それはきっと子供の頃に受けた抑圧のせいなんです」

先輩は驚いたような顔をしてしばらく黙り込んでいたが、やがて口元を緩めると言った。

「そういう心配してくれるんだ、カンちゃんは」
「先輩の問題を解決したい、そう強く思いまして。そうしたら野島さんは無敵になります」
「…」

先輩の顔が一瞬、ほんの一瞬、歪んだ。
遠くで始まったパレードの音楽の方へ目をやり、再び私を見た時はもう元の穏やかな笑顔だった。

「無敵な人間なんかいないよ」
「野島さんは無敵にふさわしいと思います」
「カンちゃん」

改まって呼ばれると、私は会社のように背筋をピッと正し「はい」と返事をした。

「普通はさ、俺みたいな男を前にしたら、軽蔑すると思うんだよね。特にカンちゃんのように儒教の教えが浸透している国の人はさ」
「そうだと思います」
「でもカンちゃんは違う。どうして?」
「表面じゃなくて、根っこを見ようとしました。それは野島さんもそうされているからです」
「俺?」
「野島さんだって、洞察力が優れています。そしてその人に合った言葉を掛けます。営業先でも、会社内でも。ただ優しいだけじゃなくて厳しい時もキツイ時もありますが、それはその人を、その顧客を見る目があるからです。それは表面的なことでは出来ません」

先輩は犬の帽子を外し、頭をポリポリかいて髪をかき上げた。

「まいったな」
「何がですか」
「でもねカンちゃん」
「はい」
「過去は変えられないもの。そうだろう?」

遠くパレードを眺める先輩の横顔は、とても悲しそうだった。

「過去、ですか」
「そう。幼少期は過去じゃないか」
「そうかもしれません…。でも未来はこれから作るものですよね。そうすると何が大事かと言うと "今" ですよね。野島さんはその "今" をちゃんと作ろうとしていない時があるということです。目を背けたり、壊したりしている。アルコールやドラッグに溺れるように」
「…」
「野島さんはきちんとした関係を築けますし、その方が絶対に幸せです。好きな人をちゃんと作って、1対1で向き合ってください。好きでもない人が近づいてきたら、きちんと断ってください」

しばらく黙り込んでいた先輩が、フフッと笑みを漏らした。

「すごいなカンちゃん。カウンセラーか心理士になった方がいいんじゃないか」
「えっ。今の仕事、ダメですか!?」
「いや、そういう意味じゃない。全然いて欲しいけど」

そうして先輩は俯き、ポツリと言った。

「善処するよ」
「…ゼンショとは、どういう意味ですか」
「適切に処置する、うまくやるって意味」
「本当ですか」
「努力はする。でも」

先輩は組んでいた脚をほどき、小さく息をつく。

「簡単に超えられるものでもない」
「…」

先輩は微笑んだけれど、それ以上は何も言わなかった。

「具合、良くなった?」
「あ、はい」
「じゃあ、そろそろ帰ろう。電車が混まないうちに」

私はすっかり冷めた紅茶を飲み干して立ち上がった。

駅のホームで東京行きの電車を待つ間…割と長いこと電車が来なかったので、しばらくお互い黙り込んでいた。
不意に先輩は被っていた犬の帽子を取ると、私の頭に被せた。

「これ、カンちゃんが持っててよ」
「え、でも先輩へのプレゼントで買いました」
「さすがに夢の国を後にしたらちょっと恥ずかしい」
「そうですか。気に入りませんでしたか」
「そんなことはないんだけど」

帽子の温もり。私よりも先輩は体温が高そうだ。ふんわりと先輩の香りが漂う。

「この匂い…何かの香水ですよね」
「あ、臭かった?」
「いえ、臭くは…。でも先輩にはあまり似合わない気がします」
「そう?」
「好きなんですか? こういうの」
「いや。貰い物だからな。適当に付けてる」
「私だったら、この香りは先輩にプレゼントしません」

先輩はフフっと笑った。

「カンちゃんだったらどんなのプレゼントしてくれるんだろ」
「…わかりません。私はあまり香水とか詳しくないので。お香とかになってしまうかもしれません」
「そっか」

またお互い少し黙り込んだ。

「先輩、手を、繋ぎましょうか」

先輩は驚き、目を丸くして私を見た。構わず手を伸ばそうとした時。

警笛を鳴らして電車が滑り込んで来、先輩はもう私ではなく電車を見ていた。そうして私の手はそれ以上伸ばす勇気はなく、行き場を失った。

繋いでもいいと、そういう思いが込み上げたのは、私もダメになってしまったからだろうか。

混まない内にと園を出てきたが、思った以上に後ろにたくさんの人が並んでいて、車内になだれるように押し込まれた。

その時。

先輩は私の手を引いて、ギリギリ空いていた2席に導いた。掴まれた手首が信じられないほど熱く感じた。
手が離れ腰を下ろすと、腿や肩が触れるほどぎゅうぎゅうに詰まっている。

先輩の身体は、やはり私より温かい。

「あの…」

何と言語化して良いか分からず、あの、で止まってしまう。
先輩は柔らかく微笑むと左手を僅かに上げスペースを作った。それは私のためのスペースだと察した。自分の右手をそっと差し込むと、手のひら同士が重なり合った。先輩の手は驚くほど大きく、そしてとっても温かく、まるでお父さんみたいだった。私の手は子供のようだ。

途端に脳裏に広がった光景がある。

小さい頃、父が私の手を引いて訪れた、家の近くの広い公園。
一面に咲く真っ赤なチューリップが風に踊っている。

「カンちゃん…どうした?」

私の潤んでしまった目を見て先輩は心配そうに尋ねた。

「野島さんの手、とても大きくて、父を思い出しました」
「韓国にいるお父さん?」
「もうだいぶ前に亡くなりました」

先輩は包んでいた手を少し離し、指を絡め再び手のひらを重ねた。韓国語で깍지カㇰチ、日本語で恋人繋ぎという。

「今だけね。もう二度としない」
「え…」

お父さんを思い出させないように、カㇰチしてくれたのか。いずれにしても二度と無い。

「ひとつ、訊いても良いでしょうか」
「なに?」
「先輩は、お父様やお母様と楽しい思い出がありませんか」
「…」

混雑した車内で、車窓の向こうなんて見えるわけがないのに、先輩はそれを貫くかのように遠くを見た。そしてこの表情は先輩と出会ってから、2人の時に何度も見た。

「野島さん、そうやってどこか遠い何かを見ている時がありますね。それがその…簡単に超えられない何かを見ているのでしょうか」
「カンちゃん…本当、君には驚かされるな…」

そうして少し考え込んだ後、穏やかな顔をして話し出した。

「前に韓国語の愛称の呼び方を訊いたことがあったよね」
「はい」
「カンチェヨン…。偶然にも学生時代、似たような響きのあだ名で呼んでいた友達がいたんだ」
「えっ。韓国の方ですか?」
「ううん、日本人。勝手に俺が、みんなが呼んでたあだ名…ニックネームをもじってさ」
「そうですか」

先輩はそこで言葉を止めた。

「もしかして、そのお友達と何かあったのですか」

その時、先輩は眉間に微かな皺を寄せ、唇を噛み締めた。そして一つ息を吐き、思いの外強い口調で言った。

「思い出さないようにしているんだ」

その目に夢の後の光が湛えられている。
私も、思い出したくない事をほじくり出されたら泣いてしまいたくなる。

「私の名前のせいで、その方を思い出してしまったのですか」
「そんなことはないよ」

そんなことはなくはないことは、先輩の表情ですぐにわかる。

「だから…思い出さないように頭を麻痺させる事が必要ですか。それで彼女も作らずに…」
「…」
「野島さんは逃げています。そんなの意味がない」

先輩は軽く唇を噛み締めた。図星なのではないか。

「さっき、苦手はものは克服するためにあるとおっしゃいました。逃げていてはダメだと。私は今日、ちゃんと乗りました。克服出来たかはわかりませんが、今日は逃げませんでした」
「…」
「逃げていたら野島さんの時間は止まったままです」
「その通りだよ」
「野島さん」
「動かないんだ。俺はもう」

そんな。
先輩といったってまだ20代半ばだ。決めつけるのは早すぎる。
もどかしい。彼はシェルターの中にいるようなものだ。
それをなんとかしたいのに。

「カンちゃん、今日は本当にありがとね」
「いえ…、楽しんでもらえたら良かったですが」
「楽しかったよ」
「また一緒にどこか行きますか?」

正直、私は一緒に行っても良いと思った。
彼の笑顔は女の人をダメにする、危険な笑顔だ。
それでも私は今日一日の先輩の笑顔を、いいなと思った。

「私は先輩を動かせるでしょうか?」

先輩は、夢の国で楽しんだ後の混み合う車内を、黙って見上げた。

「俺はカンちゃんを傷つけると思う。本末転倒だ」
「どうして最初からそう決め付けますか? 私は先輩のために何かをしたいです。私が何とかしたいのです。おこがましいですか?」
「おこがましくなんかない。でも充分だよ。ありがとう。カンちゃんの相手は俺よりももっといい奴が絶対いるから。俺とは…仕事で頑張ってくれるのが一番嬉しいかな」

そうか。
姉の言う通り、近づかない方が良かったのかもしれない。

「…私では無理なのですね」
「…」

グッと繋いだ手を握り締めた。
仕事…ではそうしよう。誰よりも誰よりも励むとしよう。
野島さんのような営業マンになろう。
決めた。


やがて私が降りる駅に到着する。先輩は東京駅まで行って、更にそこからまたメトロに乗るのだという。

離した手に温もりが残る。
それ以上何も言えないまま降りる前に頭を下げると先輩は軽く手を挙げ「気をつけて帰ってな」と言った。
私は名残惜しくて、降りた後も振り返った。先輩はちょっと照れくさそうに手を振った。私も、手を振った。

風が、残った温もりをすぐに拭き去ってしまった。


先輩を乗せた電車が陸橋を渡り、小さくなって街の灯に溶けていった。



***


「カンちゃん、今日も俺は後ろで控えてるから、カンちゃんがファシリテーートしていってな」
「はい! お任せください!」

6月に入ってから営業職として徐々に主体的に顧客と関わるように任されている。他の先輩はまだ早いと言ってサポート的なことしかさせてもらえないが、野島先輩担当分は違った。どんどん任される。

私は日本人ではないから、始めのうちは言葉遣いを気にしすぎて、自分でも何を言っているか、よくわからなくなってしまったりした。

それも含めて恥をかくこともある。お客様に怒られることもある。
他の先輩は「野島はスパルタすぎる」と私を庇うこともあったけれど、野島先輩はあえて恥をかけ、怒られろ、失敗しろ、と教えたいのである。
…と私は読んでいる。

休憩時間の喫茶店では『反省会』と称して先輩からフィードバックをもらうが、私の失敗を怒ることはない。
私は言う。

「野島さん、私はちゃんと、苦手なものから逃げようとせず、立ち向かっていますよ。前回いっぱい怒られたところでも、今日ちゃんと自分から話をしました」
「うん、偉いよカンちゃん」
「先輩も、苦手にしているものから逃げないでくださいね」

先輩はちょっと私を見た後、コーヒーを口に運んで言った。

「カンちゃんがフリーホール乗れるようになったらね」
「それは野島さんが見届けてくださるということですか?」
「俺はもう行かないよ」
「自己申告ということでよろしいですか」
「いいよ。カンちゃんは真面目だから嘘をつくとすぐにわかる。だから嘘はついたりない。だろ?」
「…先輩ずるいですね。問題をすり替えましたね」

先輩はハハハと笑った。

「俺は善処する、と言っただろ?」
「ゼンショ…よしなにするということですね? されているんですか?」
「されてますよ。できる限り」

コーヒーカップを置き、組んだ膝の上で手を組み合わせた。

その手に私の手が重なることはないけれど。
先輩はリラックスした表情を私に向けた。

「カンちゃんは俺を…」
「え、今、何とおっしゃいましたか?」

ちょうど近くのご婦人方が大きな笑い声を挙げたのと重なり、かき消されてしまった。
でも先輩は照れたように小さく微笑んだだけで、言い直さなかった。


窓の外を目を細めて眺める先輩の目は、これまでよりも穏やかなように感じた。







END

後続シリーズ『Unbalance』へ

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