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初めまして。岡野まさえといいます。

看護師と心理セラピストをしています。

私は、病院勤務時代に「うつ状態」を経験し、約半年間の休職期間を経て復帰しましたが、その後も服薬治療を続けながら4年間勤務したのち、体力や気力に限界を感じ退職しました。

その後一年間自宅療養を経て、現在は病院ほどストレスのかからない職場で看護師を続けています。

そんなある時、「北岡式NLP(神経言語プログラミング)」と出会い、そのセラピーを受けた結果、うつ状態がみるみる改善し、服薬治療を止めました。

その時受けた感動から「私も幸せな人を増やしたい!」という思いが強くなり、そのためには「悩んでる人を助けること」が先決だと思い、早速このセラピストさんに弟子入り、スキルを学びました。


本当に、「これが私の人生のミッションだ。」と強烈に思いました。これは人によっては「優等生発言・きれいごと・いい人発言・宣伝文句」と受け取られる方がいるかもしれませんが、このセラピーの目的が「自分の天命 or 使命 or 生きる意味を知る or 生きる目的を見つける」なので、私がこういう思いに行き着いたのも全く不思議ではありません。


それから後は、このスキルを使ってクライエント様の「メンタル不調」を改善するお手伝いをしています。このメソッドは、その方のトラウマを解消し、「人生のミッション」を見つけられます。


私と同じ頃に入会した女性は、このセラピーを受けて「筆文字で世界に勇気を送りたい」という、人生のミッションに気付きました。彼女はそれを達成するべく、仕事の傍ら独自の世界観でその「筆文字アート」を描いています。彼女の「筆文字アート」でいったい何人の方が勇気づけられるでしょうか。私も大ファンです。⬇️彼女の作品です。私はこの作品で勇気をもらいました。

タイトル「答えは自分の中にある」


そして、セラピーに話を戻すと、セラピー自体もさることながら、コロナ禍で外出もままならない中、インターネット上(PC/タブレット・スマホ)でセラピーを提供し、また受けられることが、現在の社会環境では利点だと思いました。

私は、私自身のミッションである「幸せな人を増やす」べく、noteではメンタル不調を改善する情報を発信しようと思い、始めました。一人でも多くの方に、有益な情報をお届けし「幸せな人」を増やすことができればと思っています。

※最後にこのメソッドの紹介をさせていただきます。ご興味のない方はスルーしてください。


【私のストーリー】成育歴~看護師になるまで・そして、看護師の仕事と少しの私生活

私の家はある意味特殊でした。私が多分6歳ごろ父が精神病を発病し、一切働かず家で暴れているか、独り言を言っている状態で、母一人で働き家計を支えていました。父は、毎日幻聴、幻覚に振り回され、日常生活がままならない状態でした。私たち家族はいつも父の顔色や言動を見ながら生活していました。常に、いつ父が暴れだしても逃げられるように心積りをして生活していました。


何年経っても父の精神病は改善せず、当時精神病院への入院も何故か叶いませんでした。なので、家計は困窮を極めました。私は高校への進学を断念せざるを得ない状態になり、希望していなかったのだけど、准看護師学校に入学しました。これは純粋に生活のためです。私と家族を支えるため。その学校は、授業料不要、全寮制食費寮費不要、さらに奨学金を頂き、その上定時制ですが高校へも同時に入学できました。私にとっては、夢のような条件でした。私はその学校を無事卒業し、准看護師としてその病院で働きだしました。


正直、看護業務は夜勤は辛いし、責任は重いし、忙しいし、勤務後の研修も多く、正直毎日ヘトヘトでした。私は当時、循環器内科病棟に勤務しており、心電図を読む・疾患治療などの研修や、心臓カテーテル検査の介助看護師を任され、勉強の毎日でした。同時に私は定時制高校にも勤務時間をぬって登校していました。そのころはまだ10代でした。


そして、さらに2年後、無事に定時制高校を卒業した私は、自宅近くの総合病院に転職しました。しばらく働くうち、上司から「正看護師になる気はないか。」と打診され、迷っていると「病院が学費を出すし、奨学金も別に出すから。」と勧められ、進学しました。


この時も働きながら看護学校に通いました。通常勤務で夜勤をしながら、宿題や課題、レポートを提出しました。体力的にも時間的にもかなり厳しい状態でしたが、同級生は全て(別々の病院でしたが)働きながら勉強していました。同級生の中には、夜勤明けで登校してくる強者もいました。でも、これが私の力になりました。職場は医師や先輩看護師が山ほどいる病院。分からないことは、彼ら、彼女らに尋ねると必ず丁寧に教えてくれました。家庭教師が職場に何人もいる感じでした。なので、テストも楽勝でした。(笑)

ということで、私は無事「正看護師」の国家資格を取得し、改めてその病院で働き出しました。


しかし、看護師は自分が希望した職業ではありませんでした。周囲から「看護師はあなたの天職よ。」と頻繁に言われました。正直、今でもなぜそう言われたのか不思議です。私の何を見て天職だと言うんだろう、私は好きで看護師を志したのではないのに。いつも不思議に思っていました。


それでも続けていくうちに、少しづつ好きになっていきました。重症患者さんや救急患者さんへの、一分を争って命を救う技術を自分ができるようになったり、手術室で難しい術式での介助などを任されるようになると、自分に自信が持てました。その技術で患者さんの命を救うことに貢献できるのですから、嬉しくなるのも当然です。病棟では、患者さんやご家族から「ありがとう」と言ってもらえるととても嬉しくなり、やりがいも感じました。患者さんから色々な治療についての悩みや、病気への向き合い方、ご家族からは患者さんとの接し方や辛いお気持ちを聞いていくうち、私が出勤するのを待っていて下さるようになり、それを聞くと「本当にこれは天職かも」と思えるようになりました。


私生活では、彼ができても直ぐに振られる、を繰り返し、同僚看護師の寿退社や妊娠報告を横目で見ながら、望まないのに仕事一筋になってしまいました。父の様子を見ながら、父の調子がよさそうな時に、時々友達と映画やランチ、買い物に行くのが楽しみでした。私は、自分も結婚して子供を育て平穏な生活をしたかったのですが、真逆の人生でした。


そして話を戻すと、仕事では経験を積むにつれ、任される仕事は増えていきました。主任看護師・看護師長補佐・看護師長と職位も上がっていき、職務内容も変わってきました。


看護師長は、中間管理職。上司と部下との間で悩みました。他に毎月のシフト作成、医師と看護師間の関係調整、ベッド管理etc。毎日毎日必死でした。「神経が擦り減るとはこういうことか」、と夜遅く帰宅してベッドに倒れ込む毎日でした。もはやその時は、父のことなど眼中にありませんでした。


私は、ロングスリーパーなので8時間以上睡眠時間がないと、翌日頭が回らない体質でした。しかし、当時それは無理な相談。6時間眠られれば良い方で、「睡眠不足だ」と同僚に話すと呆れた表情で、「十分眠れているじゃない。」と言われショックでした。みんなそんなに眠っていないの?それでなぜ体力が持つの?「4時間睡眠だ」などという人と話をするといつも不思議でした。

今なら、なぜ私がロングスリーパーなのか理由が分かりました。私はHSPでした。その特徴も最近知りました。しかし、今私はそれを強みに変えています。

そうやって、あっという間に数年が過ぎていました。

そんな時、父が認知症になり症状は徐々に進んでいきました。昼夜を問わず徘徊するようになりました。

そのようにして数年が経ったある日、母の大腸がんが発覚しました。母は直ぐに手術のため入院しました。父は入院中の母を探して、夜中の徘徊が多くなりました。私は寝る時間がほとんどなく、しかし仕事を休むわけにはいかない。無理して出勤しました。職場でも患者家族とのトラブルを抱えており、私の心も体も壊れる寸前にありました。

"うつ"の診断・休職へ

そしてついに、上司が私の顔を見て「あなた変な顔(表情)をしているわね。」と言い、直ぐに心療内科に私を連れて行きました。私はその日一睡もせず、出勤していました。


心療内科の診察後、"うつ状態"と診断され、まず2か月の休職の診断書が出ました。勤務のストレスと、父親の介護、母の癌の手術、入院が一度に重なったためだろう、との医師の見解でした。かなりショックだったことを覚えています。私の仕事は誰が引き継ぐのか、休職することで部下の看護師に非難されるのではないかという恐怖を覚えました。しかし、それは私の思い込みだったと後に知ることになります。


私が休職したころ、父は相変わらず徘徊を続けていましたが、私が家に毎日いると徘徊の頻度は減ったようでした。母の大腸がんの手術後3週間目に、私は休職したことになります。なので、私は自宅でゆっくりと両親の世話ができました。そして、時間に縛られず、寝たいときに寝て、食べたいときに食べ自由に時間を使えることを嬉しく思いました。


そして、さらに次々と診断書が追加され、合計半年休職しました。その後リハビリ職場復帰を2か月した後、服薬治療を続けながら正式に復帰しました。ただし、最初は夜勤の許可は出ませんでした。許可が出たのはさらに3か月後でした。


復帰して2年後、父が呼吸器の病気の悪化で、入退院を繰り返し始めました。徘徊するので夜間は付き添いが必要でした。毎日は無理でしたができるだけ付き添うようにしました。しかし、父は徘徊して転倒し頭を打って、脳に血が溜まり手術をしました。これも2度ありました。


そして呼吸器の病気が落ち着いたころ、療養型の病院へ転院しました。そこは付き添い不要で、面会だけ許可されていました。父は、そこで約2年お世話になり、ある夜、一人でひっそりと眠ったままこの世を去りました。前日、面会したその夜中のことでした。そのころはもう、私が自分の子供であることも忘れていました。ただ、いつ面会に行っても私たちの顔を見ると、いつも嬉しそうにニコニコしていました。

父の死・そして退職へ

父が眠っているような顔を見て、これで何もかも終わったんだ、と思いました。そう思うと、私の中の何かが"プツン"と音を立てて切れるのを感じました。一気に、気力がなくなり、ガクガクと体が崩れ落ちる感覚に襲われました。何とか通夜、葬儀、初七日を終え職場復帰しましたが、今までのように仕事はできませんでした。”うつ"の悪化だと自分で分かりました。


通院中の心療内科を直ぐに受診しました。私は、病休の診断書は避けてもらい、薬を増量してもらって勤務しながら治療を続けました。医師には病休を勧められましたが、拒否しました。同僚にこれ以上、迷惑を掛けたくなかったのです。私は「優等生」でした。いつもいつも「良い子」でした。人の顔色をみて、自分の行動を決める、自分であって自分を生きていない、そういう人だったのです。自己犠牲は誰の得にもならない。今なら分かりますが、当時は他人に嫌われることが心底怖かったのです。

そうは言っても、当直が辛く、(看護師は)続けられないな、と限界を感じ、父が他界してから1年後、病院を退職しました。母が元気だったので救われました。

そして1年間、自宅で療養生活を送りました。何にも縛られない自由な生活を謳歌しました。人生で初めての自由でした。誰の心配もせず、自分のことだけを考えて、好きな時に好きなことをする、なんて自由なんだ~~~!!

直ぐに、抗うつ剤が減量でき、睡眠導入剤の量も減りました。しかし、生活にはお金が必要です。貯金を切り崩し細々と生活しましたが、1年間の生活費は思った以上に、多額でした。このまま働かずに生きれるほど、貯金があったわけではないので、少しづつ就活を始めようとしたところ看護師の友人から紹介がありました。

転職・小学校へ看護師として勤務

それは、小学校での障がい児の付き添い(医療的ケアの提供)の話でした。全くの別世界、医療とは関係のない職場。嬉しかったのですが、障がい児との関りがなく、障がいについての知識は0でしたので、かなり悩みました。それに障がい児が、普通小学校に入学することは県内初で、市教育委員会や学校側も非常に敏感になっていました。


友人や市教育委員会、福祉や保健師、担当医とも話し合いを重ね、迷った挙句承諾しました。かなり勇気が必要でしたが、クリニックや病院で働く意欲もなく、まったく医療関係者のいない職場なら、返って気分的に楽なのかもしれないと、ある種気楽に考えている部分もありました。


それが甘い考えだとすぐに気づきました。小学校へ入学してきた母子と馴染むのに、半年以上必要でした。母子の結びつきは強く、他人が入る隙間などありませんでした。母は、安易に子供を触らせないし、子供も私からの接触を拒否します。言葉や態度では表さないのですが、何かしようとすると子供は母を見ます。そうすると母が先に動き、私の出る幕がないのです。子供は担任教師にも、私にも話をしませんし、母も必要以上に私たちに話しかけません。いつも二人で目で話していました。ある種二人だけの言語で話しているようでした。


これはどうしたものかと、担任教師と頭を抱え込みました。まず母子には、学校に慣れてもらおう。そのために、母と上手く付き合えるようになろうと、担任教師とともに毎日母を雑談で話しかけ、子供の家での様子を聞きました。母に子供の好きな遊びや好きなアニメや、好きなお菓子、好きな料理を聞いたり、母の得意料理や興味のあることを尋ねたりして、一日を過ごしました。一日中"遊び"、その中に数十分授業があるという感じでした。


当然、私は抗うつ薬を増量され、睡眠導入剤も再開されました。私は、自分の浅はかさに心底嫌気がさしました。「なんで、あんなに簡単に自由にできると思ったのだろう?自分一人なのだから、私の代わりはいないのに。」


しかし、どんなに悔やんでも、ここで放り出すわけにはいきません。子供の将来が掛かっているのですから。ここで、諦めると母は2度と私だけでなく看護師自体を信用しなくなる。毎日、重い体を引きずるようにして学校へ出勤し、担任教師と毎日打ち合わせをしました。担任教師も大変だったと思います。


絵本を読み聞かせたり、その日の気分で子供を学校のベッドに寝かせたまま、即興の物語を作り子供をヒーローに仕立て、私と担任教師が敵のような構図でゲームのような寸劇を子供と一緒にしました。徐々に、母も子供も声をあげて大笑いするようになりました。私と担任教師は、毎日毎日ヒーロー(子供)が色々な敵(私と担任教師)をやっつける遊びをしました。そうこうして毎日を過ごしていると、母から医療ケアを私がするよう持ちかけられるようになりました。子供も全く抵抗を示しませんでした。授業も、短時間ですが車いすに座り、きちんと教室で受けられるようになりました。


そのうち、母が子供を送ってきて、下校時に迎えに来るようになり、子供は一日中私と担任教師と一緒に過ごすことができるようになりました。

そして、2年生に無事進学でき、授業もほとんど健常児と同じクラスで受けられるようになりました。

しかし、私は抗うつ剤を減量すると、体が重くなり頭痛や吐き気に襲われ、夜も眠れなくなりました。ある種の薬物依存だったのかもしれません。私は一生、この薬を飲み続けなければならないのか、と不安と恐怖でいっぱいになりました。

北岡式NLPとの出会いとうつの完治

そうして、夏休みに入り、偶然、SNSでインターネットカウンセラーの広告を見付けました。悩んだ挙句、説明会に出席しました。私は、そのコミュティに、「ある心理療法」でトラウマやうつ、適応障害や自律神経失調症を解決できるメソッドがあることを知り、また数々の人がそのメソッドでメンタルの不調から脱している話を聞き、早速入会しました。


北岡式NLPの習得・セラピストへ

そこで、私の師匠のセラピストに出会います。この師匠も2年前までうつ病を患っていて、このメソッドで解決した人の一人でした。そして、前記したように師匠も「自身の天命」を知り、現在、心理支援の団体を運営しています。顧客には、150人規模の会社社長とその従業員様、個人の方(主婦や学生、会社員)、一人起業家、大学教授などがおられます。※個人情報なので、ここまでしか知りません。

 私も師匠のセラピーを受け、うつ状態を完治、抗うつ剤の断薬に成功しました。心療内科の医師に、「もう服薬の必要はない」とお墨付きを頂きました。現在も服薬していません。再発もありません。
 さらに「私の(ミッション)使命」を知りました。なので、私はこの師匠に弟子入りし、このメソッドと心理学について学びました。その他、ヒプノセッション(ヒプノセラピーを中心としたセッション)を習得し、クライエントのご希望のセラピーを提供しております。その方に合ったセラピーを提供することが、私のミッション「幸せな人を増やすこと」の一つの方法だと考えるからです。
 かなり以前に、臼井式レイキを習得しておりヒーラーでもあります。クライエントのお悩みを多角的に捉えられるよう、日々努力しております。


現在、私はこれらのセラピーを提供し、私と同じようにメンタル不調で体が動かない、悩みが消えない、フラッシュバックに悩まれている方の支援をしています。ついでに言うと、このNLPは自身で使うことができます一度覚えると、自分自身に使えるようになるのです。ここも、重要な点であると思います。

と言うことで、私も自分で自分にセラピーし、解決しています。生きていれば、誰しもネガティブな出来事に遭遇して当たり前ですが、このメソッドを自身に使い、自分でその日の「嫌な出来事」「嫌な感情」を解消しています。

また、私は、一般社団法人メンタルクリア会員、ココロの秘密基地会員であり、このNLP以外にも種々のセラピーを提供できるメンバーがおり、メンタル不調を解決する一助になれるよう会員とともに、日々邁進しております。

このnoteでは、文章で(どれくらいお伝えできるか少々不安が残りますが)、不定期ですがメンタル不調に関することを発信していきたいと思っています。

できるだけ、皆様のお役に立てる記事を書いていこうと思っています。

読みにくい文章もあるかと思いますが、精いっぱいお届けできるよう頑張りますので、よろしくお願いします。🙇‍♀️🌻


北野式NLPセラピーの紹介を少し(❁´◡`❁)

開発者は、北岡泰典教授で、アメリカで開発されたNLP(神経言語プログラミング)を日本人に合わせて改良したメソッドでした。早稲田大学を卒業後、1980年からアメリカ・イギリスに20年間滞在し、1988年NLP四天王と呼ばれる初期開発者の元でNLPを学び、2000年に帰国。NLPを日本に持ち帰りました。1990年から以降40年間研究を続け、他にも数々のメソッドを開発しています。2001年には、初期NLP開発者の一人、ジョン・グリンダー氏を日本で初めて招致に成功しました。

その後改良を重ね、現在の北岡式NLPとなります。この北岡式NLPは108個のメソッドがあります。2001年開講したのち、それらを北岡氏自身が提供し、2~3年間でトラウマを解消した人は優に2,000人を超えています。さらに、北岡氏は、北岡式NLPプラクティショナーを養成、現在オフィス北岡を構えライフコーチングをしています。また、彼が養成したセラピストがさらに活躍し、トラウマやメンタル不調を持った数々の人にこのセラピーを提供し、解決に導いています。

さらに特筆すべきは、このメソッドは、大企業の社長や一人起業家、スポーツ選手など、メンタルが強くなければ生き残れない厳しい世界におられる方も、受けておられることです。名だたる著名人のブログなど検索すると、紹介されているかもしれませんね。彼らは自身の天命使命生きる目的生きる意味を知り、「自分が本当にしたいこと」を知り、ご自身の有意義な人生を謳歌されています。

ということで、このメソッドは、一度覚えると一生自分で使って悩みを解消できます。ご自分でできるのです。

また、このメソッドの特徴は、ご自身の悩みを誰にも話さず、セラピストさえ知らせずに解決できる、コンテントフリーであることです。

アメリカでは、このNLPが心理療法の第一選択であり、メジャーなのだそうです。

日本でも、このセラピーがどこでも受けられ、幸せな人が増えるといいなぁ、と思っています。

どうぞよろしくお願いします。


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