人と話すとき、話が深くレベルの高いものになればなるほど、脳と脳の間で話している瞬間があるように感じる。 対話するということは、脳の深いところにたどり着くための共同作業であり、その場所を共有するための対話であり、自力では進めないところに行くための対話であると感じる。 対話することによってしか、たどり着けない場所がある。 コミュニケーションは、必要だ。
わたしの中に、今まで何人の「あの人」が入れ代わり立ち代わり、存在しただろう。 久しぶりに、わたしの中に「あの人」が表れた。 あの人が笑うと、赤ちゃんが笑ったときみたいに気持ちがほころび、暖かく、心が締め付けられたようになる。 気が付いたら、あの人のことを探している。あの人を目で追っている。 少しでもあの人と同じ空間にいられるように、あの人を見ていられるように。 恋している。 何年ぶりだろうか。こんなに心がドキドキして、何かに押さえつけられたように苦しい。 それな
太宰治が頭のなかにある言葉たちを話し、それを奥様が文面に起こす。そうして、太宰治の文学は完成されたという。 それゆえなのだろうか。太宰治の文章は、直接心に流れ込んでくる。直接私に話しかけてくる。直接私の頭に吸収されていく。 高校生の時、初めて太宰治に出会ったときの衝撃は今でも忘れていない。 『斜陽』。あれは、真の日本文学であり、貴族文学である。太宰の真骨頂である女主人公の一人語りで、乙女の恋、憧れ、そして滅亡を描く。目を引くのは構成しつくされたストーリーラインだけではな
『RRR』という映画が偉くおもしろいという噂を聞き、遅ればせながら見に行った。 声出し・踊りOKの特別上映もあるとのことで、どんな映画なのかイマイチ検討がつかないまま映画を見に行った。 映画を見た一番の感想は、こんなパワフルで楽しい映画があったのかという驚きと感動だ。 なぜかわからないが、映画が終わった後もドキドキして、もっとこの二人を見ていたいという願望が私を支配し、今にも駆け出したい衝動が駆け巡った。 そして、私はインドという国を知った。 今の日本に、こんな楽し
カミュの異邦人を読んでいるとき、私は常に主人公に対して違和感を感じていた。 もう、主人公の名前も思い出せない。 しかし、最後、主人公が死刑に幸せを見出した時、私はひどく感動したのを覚えている。 私は、この本を読みながら、死刑囚の気持ちというものに思考を傾けた。 狂おしいほどの感情の波を超えて、最後は明るい空、まぶしい太陽とともに大衆の前で命を絶たれることに歓びと幸せを見出す。 私は最終章を読みながら、作者のペンを熱く走らせるのありありと想像できた。 最後の一文を読
田舎のおばあちゃん家に帰省した。 一通り畑仕事と庭の掃除を手伝った後、わたしと弟は、そおっと目配せをして山の方へ駆け出した。 2人とも笑っていた。 この山は、2人にとって幼心を取り戻す唯一の場所であり、2人の唯一の遊び場である。 この獣道行ってみよう この池に石投げてみよう ホウホウって言って宇宙人と交信してみよう どっちの枝が強いか対決しよう すべての冒険心、ワクワクを駆り立て、実現させてくれる場所である。 山を一つ二つ超えて、さんざん遊んだ。 そろそろ
着物屋さんに行った。 お母さんから受け継いだ振袖の傷を治しに。 でも、昔のいい着物に使われてる技術を復元できる職人はもういないらしい。 いまは全部インクジェットで柄を出していて、昔の絞りとか手縫いとかをできる人がいない。 だから、昔のいい着物はもう修繕できない。 職人さんがいないから。 技術がないから。 「そんなんできる人もうおらん。」 この言葉を小一時間の間に何度聞いただろうか。 着物屋さんのおじいさんと助手の若が、いや、いける、いけない、と言い合っている
思い込んでいたことを気づかされたとき、驚きよりも自己嫌悪が勝つ。 自分の無知を知ったとき、自分の傲慢さを知ったとき、自分のレベルを知ったとき、絶望する。 自分の非を見つけることは、まだ向上できるということ。 でも、向上心を持ち続けることとは違う。 向上心を持ち続けられる人間は、自分を持っているとか、ほかの人からの理解があるとか、家族や友人との関係が良好だとか、いろいろあると思う。 だけど、本当に必要なのは自分の現状を知っていることだと思う。 どれだけ自分を知ってい
今日、川べりに腰を下ろして、ドーナツを食べた。 昼下がりのドーナツ。 授業始まるまであと10分のドーナツ。 息の詰まりそうな生活から一瞬でも解放してくれる。 川べり。 たいせつな人ができたら、ここに連れてこよう。 たくさんのことを話そう。 たくさん笑おう。 そう思える場所。 大通りから川沿いに5分ほど。 冬前のひんやり穏やかな気候も相まって、空気が澄んで、鳥も鳴いて、空もきれい。 そしてわたしは後悔する。 コンビニのドーナツという、人の温かみも冷たさも
食べることは生きること。 食べることが大好き。 おいしいものを食べるために生きている。 だから、おいしいものしか作りたくないし、買いたくないし、食べたくない。 そして、舌は肥えていく。 ふと思う。 ほんとにおいしいものを食べ続けて、おいしいものとそうでないものの区別がつくのと、普通のものでもおいしいおいしいと言って食べれるのと、どちらがいいんだろうか。 わたしは、たまにホテルのビュッフェなどで、すべて中途半端な質のものしかなくて辟易する。 そんなときに、これを
体の不調や、なんとなく不安に思ってること、もやもやしてることを人に聞いてもらえたり、解消してもらえたりすると、泣きたくなる。 涙が出ちゃう。 そんなに気を張ってたんだね、って自分をなでなでしてあげたくなる。 頑張ったねって言ってあげたくなる。 自分に対して泣くことってそんなにないけど、試験があったときとか、病院に行ったときとか、自分との葛藤が何らかの形で解き放たれたとき、自分をより深く理解できる気がする。 そんな経験のお手伝い、できないかな。 もちろんそれは、誰か
みんなで遊ぶことは、やっぱり楽しい。 メンバーが、ほんわり、ゆったり、平和チームであるほど、楽しい。 やっぱり気を張らないといけない人なんかよりも、張り合ったり、競い合ったりする必要のない人たちと遊んでいたい。 そういう意味では、やっぱり、学生時代の友達は大切にしたい。 ステータスとか職業とか収入とか、そういう意味の分からないことで人を区別したり関係性ができたりするっていうことがない、この学生時代の関係性を大事にしたい。 この先そういうある種のしがらみみたいなものを
塾のアルバイトをやっているが、生徒の受験が近づいてきて、中には一週間後に試験を迎える子もいる。 彼らは、弱くて、脆くて、面接練習でしゃべれなくて、グループディスカッションでぼこぼこにされて、泣いてしまう。 不安と、自分への絶望が募ってしまう。 何とかしてあげたい。 助けてあげたい。 救ってあげたい。 だけど、わたしにできるのは成績を上げて、志望校に合格させてあげることだけ。 わたしは、学生の間に関わる一大人となるのだから、かっこよくて、一生懸命な姿を見せようと、
”東京の人は冷たい。” みんなそう言う。 ほんとにそうなんだろうか。 確かに、東京の雑踏に、人情の色はない。 でも、それって、東京だから、都市だから、? ”経済発展や社会発展に感情はいらない。” はじめてこれ聞いた時、わたしは耳を疑った。 どんどん生産スピードをあげて、資本を増やして、人を増やして、働かせて、、、、こんなふうに経済発展していく。 それが、経済のメカニズムで、この過程では感性はいらない。 理性しかいらない。 だから、東京の人が冷たいのは当たり
本って、いろんな世界に連れて行ってくれる。 いろんなものを見せてくれる。 いろんなことを教えてくれる。 そんなきれいごと、あんまり好きじゃないけど、ほんとにそう思う。 質の高い幸せか、量の多い幸せか、どっちがいい? ミルとカントの哲学を勉強していると、そんな問いが浮かんでくるけど、本を読むと、やっぱり質の高い幸せに勝るものはないと思う。 日々の幸せは、内面の富。 大きな幸せは、人生の富。 そんなところだろうか。 そんなませたことを言うつもりはなかったが、そう
昨日、文化祭の舞台でパフォーマンスがあった。 わたしは、目立つのがやっぱり好きで、ここ数日間は眠れないほどワクワクして練習をしていた。 もう伸びないと思って、部活をやめようと思った時期もあったけれど、先輩からのたった一つのアドバイスから音量が劇的に上がったことをきっかけに、モチベーションを取り戻し、練習に励んでいた。 そして、迎えた本番。 やっぱり、みんなで一つの舞台を作り上げるのって、すごく楽しい。 舞台に上がったら、アドレナリンが出て、闘志、覇気、応援団に必要な