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理想のキッチン

一人暮らしデビューは、カンボジアだった。

州の中心部なので活気はあるが、都会ではない。赤土が舞い、牛が行き来する田舎町である。
メインストリートの交差点にアンコールワット観光にバスで向かう人々で賑わう大きなホテルがあり、その奥には大きな市場がひろがっている。
日用品から食品まで、なんでも揃う市場だ。

そのほかにもいくつかのホテルやゲストハウス、小さな商店、食堂、コンビニ、ガソリンスタンド、床屋さん、銀行、学校、役所、郵便局、などなど。

そのメインストリートをまっすぐに進み、大きな川を渡る。両側に自転車屋さんやバイク屋さんのある国道を少し行ったところに、私の住んでいた家はあった。

一階は大家さんの家と、家族で営む電気屋さん。2階には貸し部屋が3部屋あり、大家さんの家のキッチンからそのまま階段で繋がっている真ん中の部屋が、私の部屋だ。

カンボジアの田舎町に"一人暮らし"という文化はあまり馴染まず、家族で住むとか誰かとシェアするとかが普通なため、部屋、といってもかなり広い。
階段を上がって左側は、バドミントンができそうなくらい広い吹き抜けのリビングに、ベッドルームがふたつ。小部屋がひとつに、トイレ兼シャワールーム、屋上。コンクリート造りで床はつるつるのタイル貼り、エアコンなし。
そして階段を上がった反対側に、キッチンがあった。
水色のタイルの台に、シンクと戸棚は作りつけ。あとはコンロと冷蔵庫とトースター、スツールに置いた水のタンクだけの、シンプルなキッチン。

リビング側は国道に面しているのだけれど、その裏側にあたるキッチンの向こうには何かの畑が広がっていて、伝統的な高床式の家がまばらに見える。
キッチンの脇についているドアを開けると、なんともいえない心地いい風が入ってくるので、仕事から帰ってきたあとの夕方の時間をよくそこで過ごした。
日本のよりパンチの弱いコーラや、シュウェップスのトニックウォーター、ライムを絞った炭酸水なんかを飲みながら、水色からオレンジ、ピンク、紫に暮れゆく空をぼーっと眺める至福の時間。
畑の向こう側には大きなお寺の尖塔が見え、スピーカーでお経が聞こえてくる。

電気をつけたくなるくらい暗くなってきたら、ドアを閉めてお料理を始める。
食材は、帰り道に市場で買ってきたトマトや青梗菜やきゅうり、にんじんなどの野菜。卵に米。たまに都会へ行ったときにスーパーで買うお豆腐やきのこ、日本の食材、お肉屋さんのおいしいソーセージ。
鍋でごはんを炊いて、ポトフやお味噌汁、野菜炒めのような簡単なおかずを作った。
日本のようにいつでもどこでもいろいろな種類の食材が手に入るわけではないので、作れるものも限られる。
おいしいパン屋さんがないので、コンビニで買った甘い缶入りの豆乳を使ってベーグルを焼いたり。ホテルにバーができた!と喜んで赤ワインを買ってきてビーフシチューを煮てみたり。硬いお肉を柔らかくする方法を調べて試してみたり。ものがない中で工夫して、おいしくできた時の喜び。

料理が特別好きなわけじゃないし、得意でもない私が毎日キッチンに立ち、工夫することを楽しめたのは、きっと、そのキッチンが特別だったからだ。
作りつけの台に面した壁には大きな窓があり、外の畑や広い空を見渡せる。
そして、いつでも明るい。
便利なシステムなんて何もないけれど、壁に向かって黙々と作業をするのではないその開放的なキッチンが、料理を楽しくしてくれたのだと思う。

日本で一人暮らしを始めて、眺めのよいキッチンなんてそうそうないのだと気がついた。
一人暮らしの部屋なら尚更。
今家族で住んでいる賃貸のマンションも、キッチンは壁に向かってついている。

今は割と料理が好きで、わーっと集中して何品か作る達成感を楽しんだりしている。
そして、時々思い出す。
さわやかな風が吹く、明るく眺めのよいあのキッチン。
あそこで料理ができたなら。

もしも好きなところに住めるのなら、どこの国でもどんな町でもいい。海でも山でもなんでもよいから、広い空、開けた景色を見渡せるキッチンのある家に、私は住みたい。



#どこでも住めるとしたら


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