都会の端っこで愛を探す
日本で一番野宿のおじさんが多い街、釜ヶ崎。
ずーっと大阪で育ってきたのに、かすったことしかないこの街は、ただ「なんかわからんけどこわいとこ」でしかなくって。
21になってようやく行く機会ができたので、頼もしいお兄様に連れられてFWに行ってきました。
そこで感じたことをつらつらと。
まず、予想以上に路上生活者の方々が鴨川等間隔以上に点々といた。そして冷たい目線を見学者に向けてくる。刺さる。痛い痛い。
「きっとお前らは見ているだけで帰って小綺麗な感想を一言だけ述べたりするだけだろ。」
その目はそう言っている気がして、実際そうしかできない自分を見て、泣きたくなった。
私は結局、悲しむ人たちの話をきいて、現状を知って、そうやってインプットするだけして、アウトプットができない。彼ら彼女らに愛を返すことができていない。その事実が悔しくて悲しくてたまらなくなって、それを思い返しつつ帰り道に泣いた。アウトプットするのは涙じゃなくてさあ…とか思いながら。
使うだけ使われて捨てられて、それを間違っていると声にあげても届いていない。そんな不条理が普通に私たちの生活のすぐそばで起こっている。
歩いても、歩いても、一人のぼろぼろになった人ばかり。
孤独だ。悲しみしかない世界だ、わたしのいる世界とは、もう別の世界だ。
新今宮駅の目の前の職安センターが入り口となっていて、その周辺だけ切り取られたパラレルワールドのような、そんな気がした。
その光景を見て頭がクラクラした状態で街を歩いていると、自分の街と同じ聞き慣れたゴミ収集車の音がして、はっと我に帰る。
ここは、別世界なんかじゃなくて、私の暮らす世界の地続きにある場所なんだと思い返された。
こうやって自分の世界と彼ら彼女らを切り離していった、そのみんなの行為の結果がこの街なのだろう。周縁化の究極なのだろう。
何が、臭いものには蓋をしろ、だ。蓋をしても臭いものは無くならないしむしろもっと臭くなる。だめじゃん。
そのあと、あるキリスト教の団体さんが運営しているコミュニティスペースに行って、そのあと学童のようなコミュニティにも行って、お話をきかせていただいた。
そこは外の雰囲気とは逆に明るくて、ちゃんと人の温かみを感じる場所だった。
じーんときたのは、前者のコミュニティスペースに設けられた、納骨室。
家族がおらず死んだ後すら行き場のない方々の骨を納めていた。
けれどそこに飾ってある写真はみんな笑顔で。
勝手に孤独だと決めつけていたけど、彼らもちゃんとこの施設の人だったり同じ日雇いの仲間だったり、誰かしらに愛されていたんだということを知って、安心して涙腺が危なくなった。
たくさんの人には忘れ去られているけど、それでも誰かは目に留めて、祈って、愛の実践を行なっている。それぞれが助け合っている。その事実をちゃんと終わる頃には知れてよかったなあ。
みんな愛されますように。一人残らず愛されますように。神様はきっと彼らを見捨てていない。けれどこの世界でも、彼らに見捨てられてほしくない。
今日1日だけでわすれてしまうかもしれないけど今日1日くらいは彼ら彼女らのことを強く想って眠ろう。と思ったのでした。
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