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思考のアップデートのきっかけは、ASD。

 「人は誰もが自分を中心に、自分の枠組みで世界を解釈し、体験している」

 そんな当たり前の事を実感として、私が気付けたのは、恥ずかしながら40数年生きてきて、つい最近のこと。

 例えば、自分がとても視力が良かった頃は、多感な若い感性と相まって、他人の顔の毛穴までよく見えてしまい、他人に顔を見られた時をとても気にしていたけれど、歳を取って乱視が酷くなってからは、視界が大抵ボヤボヤなので、細かいところは見えないから、自分が見られた時もそれほど気にならなくなったりした。つまり、誰もが意識しない限り、自分の体感、経験を基に、自分の外側の世界を見ている。

 この発見は、とても大きかった。
 何故なら、自分がこの先接する誰に対しても、自分と違う意見や価値観であったとしても敬う事ができる自信ができたから。

 勿論、相手の価値観ならば、こう見えるだろうとか、こう感じるのではないか、という予測はある程度見通す事はできる。でも、それはあくまでも私の想像力の射程圏内の話で、隅々まで及ぶなんて、とてもとても…定型範疇外の話を聞けば聞くほど思えなくなる。逆にそれ以前の私は、大体合っているだろうなんて思っていたのだから無知というのは恐ろしい。相手には相手の過去があっての今の感情、感覚、感じ方。そしてこれからがあるのだから、私がどうこう言う筋合いもない。私は私で、自分の思いを語り、役割分担をこなすだけだなぁと、しみじみ思うのだ。

 
ASD概念を知った時の衝撃

 私とは全く違う夫の「見え方」を知った時、ニューロダイバーシティショックとでも呼べば良いだろうか?今まで自分が「世界」だと漠然と認識していたものが、倍以上に広がっていくような衝撃があった。たぶん、私は少しだけ特殊なエンパス的な性質があるのか、夫や夫に似た感覚の人たちの脳内イメージが、感覚として頭の中に一気に流入してきた瞬間があって、その衝撃から数年は、その形にならない「理解のかたまり」のようなモノを解凍するために、自分よりも夫の感覚から見たらどう感じるのか?ばかりを興味深く追っていた。それによって結果として、自分や家族への理解と折り合いが上手く行くようになったので、その段階もとても重要だったと思う。

 でもね、その感覚を、善悪や優劣などの従来の価値観や常識である「二元論」の意識で生活してしまうのは危険だと感じた。正解は「あなたか私の"どちらか一方"」になってしまい、自分がおざなりになってしまうから。例えば、私と夫が、真逆に感じてしまう「良かれ」の場面で、夫の見え方ばかり追っていたら、その瞬間感じてる自分自身の「快、不快」や「好き、嫌い」の感性や感情が、自分自身に無視され続けてしまう事になる。実際に、二元論の中で、自分とは違うASDという認知文化の解釈だけをしている時は、瑞々しい自分の感性を失っていく感覚があって、うつ状態になったりもした。自分を無きモノにしてしまったり、抑圧してしまうから。

 じゃあ、夫の感覚を知るのは無駄だったのか?と言えば、無駄どころではない。
 まず、私が言いたかった趣旨とは違った解釈をされたり、約束が破られたとしても、それまでの私は、夫の人間性を疑ったり、腹が立ったり、信用できず不安になったりしていたけれど、ただ単に、認識の仕方、記憶の仕方、表現の仕方の違いであると、今は心底分かるからこそ、「この話が通じないなら、違う表現にしよう」とか、「夫と合う話題に変えよう」とか、「今日は私の話を分からなくても、ただ傾聴してくれる?」と頼んでみるとか、悲観的にならずに自分の意思で選択していけるようになったから。単純に私たちは根本の価値観では合ってるのだけど、「合う話」となると世間一般と比べれば、範囲が狭いと言うだけだと分かっている。こう捉えられるようになったのは、途轍もなく大きな変化だ。夫婦間で、ほとんど事故らなくて済む。事故っても、「あ。なんか違ったのかな?ごめんね」とお互い思えるならば問題ない。

非二元論へのアップデート

 ただ、一つ大きな問題がここにはあって、どちらかの「我慢」の上で平和が成り立っているようでは本末転倒だということ。自分が思った事を「言わない」とか、感じた事を「否定してしまう」などによって、ただ表面的に平和な家庭を装うくらいなら、別々に暮らした方がマシなのでは?と、私は思ってしまう人だから。

 そこで、私は二元論ではない、もう一つ先の段階に思考をアップデートする必要が出てきた。因みに、夫は幼少期から二元論の世界観に身を置いていない人で、これはASD特性がきっかけだったとは思うけど、その視点自体に定型、非定型は全く関係ない。実感としては、思考のアップデートをする前の私にとって、夫の考え方は、時系列の感覚もないし、人と言葉でやり取りしたがらないし…何から何まで本当に「宇宙人」そのものだった。

 非二元論は、スピ系の知識になるだろうか?私は聞き齧った程度で、あまり詳しくないのだけど、Twitterで数ヶ月ツイートして、あまり理解を得られないと感じていた領域である「俯瞰」の視点の話。これは「あなたの考え方はそうなんですね、私はこう思うんですよ」という「どっちが正解か」という比較や競争の意識ではなく、「両方OK」の感覚。これ、言葉で言うのは簡単なのだけど、潜在意識を書き換えないと、実践する事がかなり難しい。違う意見を言われる事や、予測と違う反応が返ってくる事に、特に私たち日本人は慣れていないので、どうしても「否定された」と感じてしまったり、自分の中の常識からかけ離れた感覚に対して「良い悪い」のジャッジをしたくなったりしがちだから。
 なので、善悪の道徳観、人との比較、世の中の価値基準など、潜在意識の刷り込みを無意識に「自分の考え」として感じている自分の思考に気付き、修正していく作業が必須だった。それによって、俯瞰…つまり、少し高い位置に視点が増えると、気分や感情に飲まれなくなる。所謂、「雑念」が湧かなくなる状態。誤解を恐れず言うなら、後天的アレキシサイミア状態。実際は感情を客観視、メタ認知しているのだけど。

 私はこの潜在意識の書き換え作業を、2年ほどひたすら毎日やってきた。内観して、自動思考に疑問を持って、刷り込みに気付いて、新しい考え方を入れて実行していく…それをひたすら続けてきた。価値観がガラリと変わってしまい、表面の言動ではなく潜在意識の深さまで潜れるようになるので、容易に言葉にできなくなったり、混乱して今までのように器用に立ち回れなくなったりもしたけれど、これを「まるでASDのようだ」と言われたとしても、どうしても私が達成したかった理由は、「他人に合わせる人生は嫌だ!でも、自分と違って当たり前の他人も尊重して共存したい!つまり、本来の自分を出し合って、尚且つ共感的な人間関係を築きたい!」という、私の中に強い欲求があったからだ。

 気休めの平和とか要らない。どんどんお互い自分を、自ら型に嵌め込んで、縮こまってしまう気がする。自分を表現もしないで、何のために生きてるのさ?と、もう散々我慢ばかりしてきて ( これも誰に頼まれたわけでもなく、自ら選んでいたんだけど ) 心底うんざりしていた。
 そしてこの期に及んで、社会はもっと私たちの自由を奪い、枠を狭める方向に進んでいる。二元論やエゴの領域、今までの常識だけに留まっていると、その世界観に巻き込まれ、やがて首が締まってしまうだろう。

 恐らく、これからの社会はあからさまに、自分のフォーカス一つで、発達障害という概念も「障害」か「個性」か180度変わってしまうような世界観になる。ネット上でもその議論に答えが出ないのは、その人の思考によって捉え方が全く変わり、世界は如何様にも変わってしまうからだと思う。昨日今日に始まったわけではなく、今までだって世の中はずっと同じ法則で動いていたんだろうけど、その流れがこれからは急勾配になるのは目に見えている。定型だとか非定型だとかで、正直争っている場合ではないだろう。私たちの自由に介入してくる、社会の仕掛けを見抜いて、賢く、快適に自分らしく生きるには、それぞれが自分の思考を変えていくしかないと私は思う。それには、潜在意識の書き換えがとても重要になってくるだろうと、今時点で私は思っている。
 
 この記事を読んでくれる人がいるか分からないけど、Twitter上では書けなかった自分の変化を記録しながら頭の整理をしたいので、しばらく実践してきた事やその試行錯誤について、ここに書き綴っていこうと思う。

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