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変化の話

今日は気圧の変化で左の鼻だけ詰まっていて、左目だけうるうるしていた。花粉症になったかと思えば、お風呂に入っても駄目だった。体がついていかれない。

先週道端で咲いていた、たんぽぽはもうわたげになる支度をしていた。少し切ないような、命が巡る早さに物悲しくもなったりした。

ふと近くの公園を見ると咲き誇っていた桜が葉だけになっていた。今年は本物のさくらを見るのが怖くて、直視できなかったけれどこんなに短い期間だったのに驚いてしまった。今年の桜は早かった。

春の短さを知る。そしてやはり、春は怖い季節だ。

近頃、好きだった風景が離れた場所から見える気がする。白昼夢かもしれないが、走っている車や空気の色、空模様を想像する。好きな景色が嫌いな景色にならないように、とっても大事なものを壊さないように、実際にその場所に行くのは避けている。

あのとき見つけた落ち葉やどんぐり。きっともう微生物に分解されたり、誰かにお掃除されたりしていると思う。なんだか勝手に思い出を片付けられてしまったように感じる。

住んでいた家、お世話になった家。自分の居場所が跡形もなく機能していることを知ったときと同じような寂しさがある。おそらくこれが寂寞という感情なんだと思い知る。

わがままでごめんなさい。きっと過去のキラキラに一生懸命になって縋っているようじゃ何も変わらないのだ。思い出の大事に仕方が違うのかもしれない。昔、執着だと言われたことを思い出す。

生きた場所、自分が一生懸命になれた場所に執着しない人間なんているのだろうか。もちろん行き過ぎるとわがままになるのだろうけど。

その環境を破壊していた原因は咎められることはないのに、どうしてそれをなんとか維持しようと、保とうとする人は疎まれてしまうのだろう。一方的な見方すぎるのかもしれない。また思考が凝り固まってきている。恐るべし、被害妄想。

変化し続けるのが社会なら、変わらずに安心できる場所は一体どこにあるのだろうか。巣がないのだ。心に安全な場所がない。安全って何だろう。安心ってどこで得られるの。

がんばらなければよかったと、何度も思ってしまう。頑張る方向が違うと、過去に戻りたいと思ってしまう。

どうか、忘れないでいてほしい。これも所詮、僕が自分でできる範囲の話じゃないのだけど。