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「タオ」の話

出先で本を買った。「老子」の考えがまとまった本だ。これが不味くて、行った先々でなにかしら購入してしまう。本ならば許されるだろう、という甘い考えから「あれもこれも」状態になる。不覚。

高校生のときに出会った老子さんの考え。水のように生きるとはとても素敵だなと感激を受けた。あの頃の綺麗な出会いから、己の醜い承認欲求を肥大化させ、ここまで酷くなったのかと客観的に見えた。ここまで大真面目に悩んだのだから、滑稽だ。

読んだ一節に「優があるから、劣がある」という言葉があった。僕が今、とても悩んでいるのは比べているからだ。何者でもない僕が、様々な人の幸せを垣間見て、比べ苦しんでいるからだ。理想としたライフプランから大きく外れ、焦っているからだ。これは劣っていることの証明ではないはずなのに。

読んでハッとした。「僕は傲って、欲張っていたのだ」と気がついた。自分の内側に本当はないもの、ある程度の欲が存在することさえ、許すことができなかった。

誰かが、見ている。毎日こうして生きていることを誰かが、見ている。見てほしいのは、承認してもらいたいからじゃなくて、証明してほしいからだ。知ってほしいからだ。

何となく流れてくる通説に自分を当てはめて考えていた。僕が今、見ている景色。できること、できないこと。苦しいこと、幸せなこと。全部、僕のものなのだ。

僕が僕であるために 勝ち続けなきゃならない
正しいものは何なのか それがこの胸に解るまで

尾崎豊『僕が僕であるために』

勝ち続けるなんて無理だと鼻で笑ってごまかして来たけれど、本当に戦わなくてはいけないものは他者ではないんだと思う。

曖昧の中を漂う勇気と向き合う力だ。曖昧に勝ち続ける。曖昧を乗りこなすことが必要なんだと感じた。

人と関わるとその人を不幸にするのかもしれないと思っていた。だけど、それは誰かが決めたことじゃない。そして、絶対にそうなると決まった将来じゃない。

空っぽに怯えないで、曖昧を乗りこなす。確かなものなんて何も無い。それに気がついた日だった。

久しぶりの精神の高揚。戻ってきているんだろう。笑えるし、眠れる。きっと大丈夫。