相手の喜びを受け入れられない悲しさとの共存

珍しく長いタイトルだ。いつも語感を意識しているつもりだが、今日は何を削っても伝えたいこととの齟齬が生まれてしまう気がしたので、敢えてそのままにしてみる。

今は昔と違って、会わなくても誰かの近況が簡単に分かってしまって、無意識に比べたり妬んだりする機会に恵まれている。

僕がズタボロにしてしまった相手は、「前を向く努力をしている、自分以外の誰かを考える余白がない。」と言い切った後、SNSのアカウントを消した。そんなことを気にしなければいいのに、僕は気が付いてしまって、激しく動揺した。だから、僕が消すことにした。僕が消えた世界は安心するのか、新たな世界にも踏み出しているようだった。

こんなこと、手のひらの上で見たってしょうがないのに。しょうがないのに、どうしようもなく、ぐずぐずしてしまった。情けない。

酷いことをしてしまったから、疎まれるべき存在なんだろうと思う。理論には納得できるのに、どうしようもなく傷ついてしまうのに耐えられない。更には、おこがましくも「先に傷つけられたのに。」と思っている節すらある。なんたる被害者意識。吐き気がする。

「あなたは要らない子だから。」

呪いの言葉が頭で何度も流れる。要らないなら、必要とされる人になろうと思った。周りの人の思いや願いを叶えるために必死だ。

「もっと役に立てるよ。」と泣き喚いてでも、自らの有用性を分かってもらおうとする。自分の心もセンスも身体も、頭の中も全部を捧げて。要らないなら、最初から欲しいなんて言わないでくれよ。僕だって、僕のこと要らないんだから。

誰かの幸せを叶えたくて生きると決めた、年始。僕は今、どうしようもなく腹を立て、妬んでいる。かけ離れた姿を残念に思いながら、薬がなければ落ち着かない心模様に疲れてきている。

自分の幸せにめいいっぱい真剣になれたなら、きっとこんなふうに悲観的にはならないはずなのに。相手の幸せを格好つけないでも、祈れるはずなのに。どうしてこんなにも、幸せを願えないのか。「いいんだ。」と思うと、苦しくなって、涙がぽつぽつ落ちてくる。

床に落ちる涙のつぶを見ていると、雪舟が子どもの頃、涙でねずみの絵を描いたことを思い出す。僕にもそんなことが出来たらと思って、触ってみるけれど、ぐしゃぐしゃの目玉焼きみたいになってしまった。

少しずつ治さなきゃいけない、解さなきゃいけない思考パターンを一掃しようとして、また死にそうになっている。

その癖、誰かの愛情を利用して立ち直ろうとしている。また別の依存先を探しているみたいな気がしてくる。連絡を取れば取るほど、僕なんかが人を愛する資格なんてないんだと弱腰になってしまう。

真っ当な人生ルートから外れてしまった。レールもない、そばに居てくれそうな人も居ない。神様、これまでの僕の人生、そんなに怠惰だったでしょうか?

聖母のように、無条件の愛を与えることなんて出来ない。分かってるのに。悲しさを認めてあげなくてはいけない。無くならない痛み。痛みを抱えたら、また優しくなれるかもしれない。

やさしくなりたい。やっぱり僕は、やさしくなりたい。出来れば、悲しみと上手く共存して。

「俺を超えてゆけ!」と屍寸前でも言える悲しみが欲しい。

僕がプリンを食べても、誰も不幸にはならない。でも、確実に誰かの幸せの裏で悲しい思いがあったり、苦しみがあったりするんだ。「僕の時間は止まっているのに。」という思いは起こり得るものなんだろう。

僻みや妬み。汚くて目を逸らしたい。やさしくなりたい。切実に。