ネイルエナメル 第1回

 ナツの指先はいつもきれいだ。

 退屈な数学の授業に頬杖をついているときも、鏡の前で唇をつきだしてメンソレータムのリップクリームを塗っているときも、ナツの指先はネイルエナメルで艶めいている。

 ――爪、割れやすいから。

 いつだったか、どうしていつもネイルを塗っているのかナツに聞いたとき、ナツは面倒くさそうにそう答えた。細く長い華奢な指先に桜貝のような美しい爪が乗っている。ナツが指先を動かすたびに、キラキラときれい。ナツの手をきれいだと褒めると、ナツは飴色の大きな目をすこし細めて微笑む。その色の薄い目と目が合うと私はどうしようもなくくすぐったくなって思わず目をそらしてしまう。

 ナツには社会人の彼がいる。モリモトサンという。放課後校門の前にとまったぴかぴかの白のセダンにナツが乗り込むのを何度か見たことがある。ナツは友達の前ではモリモトサンの話をしたがらないけど、私にだけは教えてくれる。「ナツ、今日放課後あそぼ」「ごめん、モリモトサン迎えに来るから」「どこに行くの」「ホテル」。

 ホテルという場所で何をするかくらいは経験のない私にだってわかる。私は、高校二年にもなって、実はまだ恋をしたことがない。漫画やアニメのキャラクター、芸能人、スポーツ選手に、ときめきを感じたことはあるけど、かっこいいなあとか、素敵だなあと能天気に思うくらいだ。漫画やドラマや映画なんかで恋愛ものを見るたびに、私もいつか素敵な恋をしたいと思う。そしていつか私も、恋人の車に乗ってホテルに行くのだろうか。あまり想像がつかない。クラスで付き合っている人も何人かいるし、経験を済ませたという子の話も聞いたことがある。そんな子たちはだいたい大人っぽく見えるし、なんだか自信をまとっているような感じがする。だけどナツはその中で飛び抜けて大人っぽい。

 ナツを知ったのは二年生に進級したばかりのこと。斜め前の席に座ったナツの、後ろ斜め四十五度のナツの顔を見て、きれいな子だな、と思った。アーモンド形の二重の目を縁取るまつげは長く、ナツの目元に魅惑的な影を落としている。少しえらが張っているけど、それがナツの他の人にはない独特な色っぽさを引き出していると思う。童顔のようで、横顔は鼻筋が通っていて、きりりとシャープだ。肩甲骨のあたりまで伸ばした髪は、日に透かすと少しチョコレート色のように見える。細くて猫の毛みたいに柔らかそうで、触ってみたくなる。何よりもその指先に目を奪われた。はっとするくらい白くて、関節や指先は梅の花のようにひそやかに赤い。

 ナツはあまり人と交わろうとしない。女子のグループの中にひっそりといて、たまに微笑み相槌を打つ程度で、積極的に話したり、誰かと行動を共にしたりする方ではなかった。休み時間は大抵自分の席に着いたまま次の授業の予習をしたりぼんやりしたりしているし、移動教室の時は一人でさっさと行ってしまう。だけど人を拒んでいるふうではなく、話しかけられれば受け答えるし、その対応は親切で丁寧だった。同じグループの中でなんとなく話したことはあったけど、私はなかなかふたりで話す機会を見つけられないでいた。


 ナツと仲良くなったきっかけは、初夏のクラスマッチだった。私はクラスマッチ実行委員会にすすんで立候補した。クラスマッチ実行委員は試合中点付けやタイムキーパーを務めるため、試合に参加しなくて済むのだ。運動が大の苦手な私は、一年生の時、クラスマッチの女子の競技だったバレーボールでクラスの女子チームに散々迷惑をかけた苦い思い出があった。あんな思いはもう勘弁だ。クラスマッチ前日に校庭の草むしりや小石拾い、白線引き、用具の点検など面倒な仕事はさせられるが、参加しなくてもいいのだったらそれくらいのことは張り切ってする。

 実行委員会の会議で、今年の女子の競技はソフトボール、男子はサッカーに決まった。私はほっとした。どう考えてもソフトボールは初心者には難易度が高い競技だろう。バスケットボールやバレーボールのサイズならまだしも、あんな小さなボールをこんな細い棒きれにうまく当てて遠くに飛ばすなんて、私なら絶対無理だ。それにグローブをはめるとはいえ、飛んでくる小さな球をどうやって片手で取ると言うのだろう。ドッヂボールで両手を使ってさえボールを取れたためしがない。 

 クラスマッチ当日、第一グラウンドで生徒に集合をかけ、簡単に開会式を行う。くれぐれも怪我に注意だとかスポーツマンシップにのっとってとか、そんな話を学年主任の先生がして、その後男子は第二グラウンドへ移動する。私が通うこの学校は女子の比率が多く、女子はクラスごとにAチームとBチームに分かれ、グラウンドを二分して同時に二つの試合が行われるようになっていた。

 チーム分けはそれぞれのクラスで行われる。本当は実行委員が取り仕切ってやるはずなのだが、クラスの一番大きい女子グループの中心にいる平地さんが仕切り始めたので、私はそのまま任せ、その間に用具の準備をしに体育館倉庫へ向かった。グローブやバットなど必要なものを抱えて戻ると、同じクラスの子たちが不満げにひそひそと話している。

 どうしたの? と声をかけると、檀上さんが顔をしかめて言った。 

「絶対に平地が小細工したんだよ」

  他の子たちも口々に不満を言った。組み分けがあまりにもバランスが悪く、不公平なものになっているとのことだった。私は手渡された組分け表を見た。確かに、どう見たって偏りがあった。平地さん率いるAチームは運動部や、体育の授業で活躍する子ばかりが集まり、Bチームは文化部や帰宅部が主になっている。平地さんの提案で「グーとパー」で組み分けをしたらしいが、平地選抜Aチームはどちらか片方で固定して出すように最初から指示されていたのかもしれない。 

「平地さん、ちょっと分が悪すぎないかな」

  私はチームで集まってはしゃいでいる平地さんを見つけ、クラスマッチ実行委員会として抗議をしたが、平地さんは平然と、 

「だって運なんだからしょうがなくない?」

  取り巻きもそうそう、と口をそろえてうなずいていた。

 第一試合はもうすぐ始まってしまう。今回はリーグ戦になっていて、時間に遅れるとその試合は棄権したとみなされて不戦敗となってしまうのだ。同じクラス内でもめている場合ではない。 

「もういいよ、喧嘩したって仕方ないし」 

 と一緒についてきた檀上さんが言う。 

「ごめんね」

  もとはと言えば、私が平地さんに任せてしまったのが悪かったのだ。私は何だがバツが悪くて、檀上さんの顔を見ることができない。

 「栗原さんが謝ることないよ」

  そうは言ってくれたものの、Bチームはすでにやる気を失い、どんよりとしたムードになっていた。


  私はBチームの担当だった。キャッチャーと審判は一年生の野球部がしてくれる。私はタイムキーパーと点付け係だ。試合は九回裏までやるが、あまりにも時間がかかりすぎる場合は制限時間が試合終了の合図となる。試合開始の挨拶をした後、私はコートの外に出た。点数ボードの前にナツが立っていた。試合の様子をぼんやり眺めている。体操着からのびる足は細くて長い。隣に並ぶと頭の半個くらいナツの背が高かった。すらりとした体つきなので、髪を短く切って男の子だと言われれば納得してしまいそうだ。 

「あれ、菜摘子ちゃん見学?」 

「うん、生理なの」

  ナツがBチームなのはちょっと意外だった。確かに体育の授業はよく休んでいるけど。ナツがいてくれて私はちょっぴり心強かった。 

「聞いた? 平地さんの話」

 「何が?」 

「うちのAチーム、平地さん選抜チームなんだって」

  私はさっきのいきさつを話した。

 「つまりBチームはどんくさいのばっかりが集まってるってこと?」

  歯に衣着せぬ言い方に私は思わず吹き出しそうになった。このくらいあっけらかんとしていると気が楽になる。 

「私のせいなんだ。ホントは私が仕切らなくちゃいけなかったのに、平地さんに任せちゃった。私、クラスマッチ出たくなくて実行委員になったの。そんなネガティブな気持ちがこういうとこに出ちゃったのかなって」 

 ナツはグラウンドの遠くを見ていた。あんまり興味がなさそうだった。 

「ごめんね、こんなこと言っちゃって」

  なんだか自己弁護しているみたいで、かっこ悪かった。ナツにだけはわかってほしいと思ったのだ。自分のいやしさに憂鬱になる。私たちのクラスのBチームは守備から始まり、案の定果てしなく守っていた。まともに投げる人もとる人もいないのだからしょうがない。相手チームだってもちろん初心者は混じってはいるものの、やはり何人かの運動部の子がうまくリードするし、下手な子にコツを教えたり戦略を耳打ちしたりもする。打順がまだ回っていない子とキャッチボールやバッドを振らせたりして、練習をさせている。

  ピッチャーは檀上さん、我らがBチーム――ドンクサチームと呼ぶことにする――の中でも度胸があって、動ける貴重な人材だ。けれども初心者であることは間違いなく、ストライクの数よりもボールの方が圧倒的に多い。そして打たれた時が悲惨を極める。野手は全くと言っていいほど機能していない。ボールはどこまでも転がっていく。ようやく檀上さんに返球されたころには、ランナーはすでにホームインしてハイタッチまで済ませている。

  なんとかスリーアウトを取り、チェンジにこぎつけるが、すでにコールド負けの勢いだ。敵チームのように打席が回ってくるまでに練習しようという話になったが、キャッチボールのラリーは続かないし、打つ練習をしようにも投げる方のコントロールが悪く、しかもボールを拾う人間だってへたっぴで一球投げればそれが戻って来るのにかなりの時間を要する。そして打順が回ってきたころにはへとへとになっているというどうしようもないありさまだった。空振り三振が三人続き、あっという間にチェンジ。果てしなき守備がふたたび始まる。檀上さんはくたびれ果て、キャッチャーをやっている一年男子にちょっとくらいストライクゾーンを広げてもいいんじゃないかと抗議し始めた。彼は涙目になっていた。確かに、ちょっと怖い。

 面白いほど点が取れて愉快そうだった敵チームもさすがに勝負にならないと飽いてきたようで、最後のワンナウトはお情けでくれた感じだった。攻撃、ようやくひとりがヒットを出し進塁、続いて一人が三振してアウト、もう一人がなんとか打ったが、封殺されあっという間にツーアウト。ピリピリした空気の中、ついに一人の子が根を上げて泣き出した。

 安田智子ことともちゃんは水に濡れたハムスターのように小さく縮こまりふるふると泣いた。このドンクサチームの中でもとりわけ下手な子だった。気が弱いうえ真面目なので、チームの足を引っ張っているのが大きなプレッシャーになっているようだった。

 彼女の気持ちはよく分かった。私だって去年、バレーボールで同じ気持ちを味わったから。大事な局面、そのプレッシャーは小柄な彼女には重たすぎるだろう。彼女を見ていると何だか、ただ傍観している自分が情けなくなってきた。こうなっては仕方がないと私はナツに仕事を任せ、代わりに打席に立つことにした。正直なところ、ともちゃん以上にどんくさい自信があったけれど。

  飛び跳ね腱を伸ばして、緊張し縮こまる体に気合いを入れた。バットを握り、数回振ってみた。思っていた以上に重い。力を込めて振ると、遠心力でそのまま体も持っていかれ、私はくるりと一回転してバランスを失ってそのまま尻もちをついた。見ていた女の子たちがくすくす笑った。私は恥ずかしさを誤魔化して笑いながらバットを杖代わりにして立ち上がり、お尻の砂埃を払った。 

「栗原さん」

  ナツが私を呼び止め、耳打ちする。

 「目はつぶっちゃだめ。あと、バッドは振らなくていい。振ったらストライクになっちゃうよ。あの子、そんなにコントロールよくないから。キャッチャーに取られてもいいから、振らずに、もしボールがバッドに当てられそうなら、当ててみて」

  貸して、こうするの、と私からバットを受け取りナツはバッドを横にして両手に捧げ持つようにした。

 「バットの位置は動かさずに、体ごと当てに行くの。トスするみたいに」

  私は強くうなずいてナツからバットを受け取った。そして深呼吸をして打席に立った。

  初めて戦略らしいものを見せた我がチームに、相手チームのピッチャーはちょっとだけうろたえた顔をした。しかしすぐに不敵な笑みに変わる。どうせダメもとなのだと私は自分に言い聞かせる。ピッチャーが投げる。ストライク。ぱしんっと小気味の良い音が後ろで聞こえた。速い。目を開いているだけで精いっぱいだった。ちゃんと当てられるだろうか。私はナツを振り返るが、ナツは何も言わずうなずく。二球目。ボール。ほっと息をつく。三球目。ボール。四球目、ストライク。後がない。

 じっと立ったまままったくボールにバッドを当てようとしない私を、仲間チームはあきらめ、相手チームはあざけるように見ている。ナツだけがじっと私を見守ってくれていた。ともちゃんが

「栗原さん、がんばって」

 とかわいらしい声で応援してくれる。

 手が震える。ピッチャーが投げる。途端、ボールがピッチャーの手からすり抜け、変な回転をしながらポーンと私の目の前に飛んできた。私はボールの方へバッドをぶつけるようにえいやっと一歩踏み出した。

第二回に続く(更新は9/25です)

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まめん

小説「ネイルエナメル」

毎日小説をすこしずつ公開しました。全16回、完結。

コメント2件

連載、のっけからほんのり色っぽい雰囲気で、続きが楽しみです。
たくさんの人に読んでほしいので、私のノートに、簡単に宣伝を乗せてしまいました。。。
もし不備や失礼などありましたら、直したり取り下げたりしますので、よろしくお願いします。

https://note.mu/hoshichika/n/nc9362aad1e70
恋愛小説とは異なったゲス系の小説を書いて居ますhttps://note.mu/michizane/m/me3750b01291a
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