ネイルエナメル 第8回

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 ホームルームの後、今週の掃除当番の私は教室の床を箒で掃いていた。

 今日は例のナツがいない日だった。ナツがいる日はずっとナツのことを追いかけているから、どこにいるのか、何をしているのか、ずっと気がかりだけど、今日はいないのだと諦めてしまうと、少しだけ自分のことを考える余裕ができる。

 変な感覚だが、何だかほっとしている自分もいるのだ。いつもは煩わしくてしょうがない掃除も、そんなに嫌じゃない。むしろきれいにするために体を動かすのは気持ちがいい。


 教壇の下に赤い定期入れが落ちており、定期券を見ると「ヒラチアユミ」と書いていた。ちょうど檀上さんが席で課題のやり直しをしていたので私は檀上さんに声をかけた。

「これ、平地さんのだよね。どこにいるか知らない?」

「グラウンドじゃない? 野球部のマネージャーだから」

 檀上さんは顔を上げて言う。

「そうそう、どうだったの? テスト」

 私は返答に困って曖昧に笑った。確かに檀上さんのヤマ感はすごかった。やはり持つべきものは友達だ。特に優秀な。

「その顔は、だめだったのね」

 やはりテスト前の休憩時間だけではどうにもならなかった。来週は毎日追試だ。頭を掻くと檀上さんはがっくりと肩を落としてみせた。

 檀上さんにお礼を言って私は箒を片付けてグラウンドに向かった。

 グラウンドでは運動部がそれぞれの練習に励んでいた。普段まったくと言っていいほど用のない放課後のグラウンドにいるのはなんとなく落ち着かない。あまりに広すぎて、自分はどこにいたらいいのか不安になるからかもしれない。さまざまな掛け声がこだまする中を私は足早に通り過ぎた。

 前回女子のクラスマッチをやったところがそのまま野球部の練習の場所だったので、すぐに平地さんを見つけることが出来た。

 野球部のジャージを着て、首にストップウォッチを下げ、手に持ったバインダーに何か一生懸命に書き込みをしている。日焼けした頬は赤くていつもより生き生きして見える。声をかけると、グラウンドに不釣り合いで特に接点もない私がここにいることに驚いていたが、定期入れを見せると合点がいったようだった。平地さんは定期を素早くジャージのポケットに押し込んだ。

「ありがとう。あの、もしかしてなんだけどさ、中身、見た?」

「見てないよ」

「あ、そうなの。わざわざありがとうね」

 平地さんは安心したようだった。よく意味が解らなかったが、気にしないでと大げさに手を振るので気にしないことにはした。それにしても、普通そんなこと聞くだろうか? 親切のつもりだったのに、プライバシーを覗くように思われたのは心外だ。やっぱり平地さんのことはちょっと好きになれない。

 校舎に向かって歩きながらぼんやりとグラウンドを見渡していると、体操着を着た例のたくみ君を見つけた。そう言えばたくみ君は陸上部なのだった。短距離の選手なのか、たくみ君はクラウチングスタートの練習をしていた。

 かがんで両手を地面に着いた姿勢から走り出す、というのをひたすら繰り返す。運動の苦手な私から言わせてもらうと、その練習はただの苦痛でしかないと思う。たくみ君は、顔はちょっととぼけた感じもするけど、リスのように目がまんまるで大きな口は口角が少し上がってちょうどオメガの記号みたいでかわいい系の顔だちだった。だけど体は筋肉質でギャップがある。ルックスは結構いい方だと思う。ナツが言うほど悪くないと思うけどなあ。私はたくみ君の無駄のないインターバルにしばし見とれた。

 その日は下校の時間まで絵を塗った。人物画を描くのは好きだが、なかなかナツの顔を描き込む気にはなれなかった。デッサンを何度やっても、あの表情をうまく描ける気がしないのだ。

 完璧なまぶたの形や、きれいにカールしたまつげや、小さくて少し厚みのある唇、口角のくぼみの影……。あまりに整っているし、全てのパーツに何か深い意味が隠れていそうで、到底描ききれない。そしてあの美しい手は、美貌に負けず劣らずの魅力があって、存在感がある。それらをどう表現すべきか、私は迷っていた。結局今日も背景や制服の細かい書き込みをするにとどまってしまった。


 家に帰ってベッドでゴロゴロしていたら、夕梨姉がぐりを連れてうちにやってきた。

「夕梨ちゃんいらっしゃい。夕飯、よかったらうちで食べていかない?」

「おばさんありがとう。でももう行かなくちゃいけないから。帰国したらごちそうになります」

「あら、そう? もう行っちゃうの? ひとりで?」

「ええ」

「ひとりで海外だなんて、勇敢ねえ」

「慣れてますから」

 お母さんはぐりの入ったキャリーを覗いてご満悦だったが、さっそくくしゃみをし始めたので、私はさっさとぐりを私の部屋へと連れて行った。

「猫が鳴いたり爪を研ぐ音が聞こえたりするだけで私癒やされるのよね」

 などとわけのわからないことを母が言うのが聞こえた。夕梨姉はきっと返答に困っていることだろう。

「じゃあ、すみませんがぐりをよろしくお願いします」

 玄関に戻ると夕梨姉はすでに帰ろうとしていた。

「ええ、気をつけて行ってらっしゃいね」

「ばいばい」

 私が手を振ると、夕梨姉も軽く手を上げてうちを出た。

「真奈美も何考えてんでしょうね」

 玄関のドアが閉まるのを聞いてお母さんは言った。

「女の子一人でベトナムに行かせるなんて、もし自分の子だったら心配でしょうがないわよ」

「夕梨姉はもう大人じゃん。自分が行きたくて行ってるんだからいいんじゃない?」

「あらそう?」

 真奈美とはお母さんの妹、夕梨姉のお母さんのことだ。真奈美おばさんは若い時いわゆるヤンキーだったらしく、十代の頃家を出て早々結婚し夕梨姉を産んだらしい。真奈美おばさんも夕梨姉もパワフルな人たちで、よくしゃべり、声も大きいし、同じところにじっとしていない。

 おばさんは若い頃は大変素行が悪くて、いわく「履歴書には中卒と書いた方がマシ」と言われる女子高を卒業し、家を出てから数年間全く音信不通。やっと帰ってきたと思ったら小さな夕梨姉を連れていて、聞けば実業家と結婚したものの会社が潰れて夜逃げをし、別れて来たとのことだった。今は自分で起業して飲食店のオーナーをしている。

 お父さんは婿養子で、母方の祖父の仕事をお父さんが継いでいる。お嬢様育ちといった風情のお母さんはそんな真奈美さんのことを嫌ってはいないものの(人を悪く言ってはいけない、嫌ってはいけないと言うのがお母さんの口癖だった)、どうも理解ができないといった調子で、妙に夕梨姉におせっかいを焼きたがる節がある。同情しているつもりなのかもしれない。

 もし私が海外留学したいと言ったら、お母さんは何と言うだろうか。もっとも、英語は壊滅的なので行けるわけがないのだけれど。 

 久々の私の部屋に、ぐりは大興奮だった。

 部屋の中を走り回り、高いところに上り、クローゼットの中や、机やベッドの下など、狭いところに入りたがった。古い片方の靴下の中にもう片方を詰めて放り投げてやると、しばらくはそれで夢中になって遊んだ。

 夜も電気を消しても遅くまで起きていたが、ひたすら暴れてようやく落ち着くとぐりは布団の上を這い上ってきて私のお腹の上で丸くなった。

 猫が何をどう考えているか、知る由もないけど、種族は違ってもやはり、眠る時は同じく生きているもののそばで眠りたいと思うのだ。遠慮もなく当然許されているようなそぶりでこうやって私のそばで眠ってくれることが私を得意な気分にさせてくれた。


 昼休み、ナツは教室を出たまま戻って来なくて、私は一人でお弁当を広げた。
 檀上さんとともちゃんが一緒に食べようと誘ってくれたけど、ナツが戻ってくるかもしれない。でも、ナツが戻ってくるかもしれないからとは言い出せなかった。

「いやあ、なんか今日はね、ひとりで食べたいっていうか、なんというかね」

 檀上さんたちの頭の上にはてなマークが浮かぶのが目に見えるようだったけど、変わった子だねえとのびのび言って、また今度学食行こうよ、と誘ってくれた。

 うちの学校の購買部のパンは焼き立てを取り寄せているので、お昼に買えばまだ温かくて香ばしい。特に粉砂糖をたっぷりまぶしてある揚げたてのあんドーナツが好きだった。お弁当を持ってきてはいるけど、お小遣いに余裕があるときはついつい買い食いしてしまう。

 いつもよりゆっくりとお弁当を食べたが結局ナツは現れず、手持無沙汰に当てもなく校内をぶらぶらしていると、渡り廊下の隅でナツと例のたくみ君が話しているのを見かけた。

 一瞬血が泡立つような、嫉妬の気持ちが沸き上がったが、よくよく聞いてみると、どうやら口論をしているらしい。私は二人に気づかれないよう植え込みに隠れて、耳をそばだてた。

「やめとけよ、相手、相当年上なんだろ? 絶対騙されてるって。遊びかなんかだって。おまえ未成年なんだぞ」

「あんたには関係ないってさっきから言ってるでしょ」

「犯罪だよ。見過ごせないだろ」

「人を好きになることがなんで犯罪なの? 何にも悪いことしてないじゃない」

「だからお前騙されてるんだって」

「さっきから騙されてるって、あんたが何を知ってるっていうの」

「女子高生に手を出すおっさんだぞ」

「私が女子高生だからモリモトサンが手を出したっていうの?」

「いや、それはわからないけど……。でも仮に悪い人じゃなくたって、将来考えてみろよ」

 将来? 将来って何なの? ナツの声が怒りに震えた。顔だちが整っている分、怒っている顔は凄味があって怖い。あの顔を向けられたらきっと怖気づくと思う。

「そんなこと思いながら人を好きになる方が不純だって思わないの? いろいろ言ってるけど、その人の付属品見て付き合うか付き合わないか決めるなんて、相手を自分のアクセサリーかなんかにしか思ってないじゃない。得するために、楽するために恋愛するの? 一体あんた何様のつもりでそんなこと言うのよ。恋愛もしたことないくせに」

「俺だって……、俺はおまえを心配してるんだよ。放っておけないんだよ」

「余計なお世話」

 ぴしゃりと言い切り、そのタイミングでチャイムが鳴った。あーあバカバカしい気分が悪いわ、とナツは言い捨てて自分の教室に戻っていった。たくみ君は立ち尽くしていた。こちらからは表情は伺えない。しばらくして、走って教室に戻っていった。

第9回に続く

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まめん

ゆるふわポエムガール。行き場のない言葉たち。日韓ハーフ。車椅子歴もうすぐ10年になるよ。

小説「ネイルエナメル」

毎日小説をすこしずつ公開しました。全16回、完結。
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