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日記3月2日。 #日記

本日の天気予報は、最高14度、最低5度とのこと。現在は5度であるようだが、室内は13度とまあまあ暖かめだ。10度を切ると、寒いと感じる。

珍しく?昨日は体重を測っていない。これはすごく久しぶりのことである。アルコールに休肝日があるのであれば、体重測定にも休測日があってもいいかもしれない。ビルダーにも毎日節制ではストレスがたまるということで、なんでも食べて良い日をチート・デイとして週に1回程度設定している人がいるようだが、何事も自分で自分を縛り付けがちなので、意識して外すことが必要であろう。

またもや文系、理系について。

純粋(その定義づけが難しいが)に文系的関心を追求すれば、哲学になる、というイメージを個人的にはもっている。もちろん池田晶子さんがおっしゃるところの哲学で、哲学史を学ぶ方ではない、自ら考えるほうだ。

従来は、観念的な真実の追求こそが、文系の真骨頂で、理系とは現実というくびきに縛られ、その条件下でしかものを考えられない人々ではないか、となかばひがみも含んで思っていた。

しかし最近では、純粋に理系的概念を追求する人々がいるのではないか、それは結局のところ、世界に縛られずに真理を追究する哲学者と、ほとんど同じ地平を目指しているのではないのか、と思うようになった。

私の理系能力では、計算の世界の中級(数2くらい?)が精いっぱいで、数3の世界へは到達できなかった。そしてそこではひたすら計算することが求められた。計算することの、意味が全然わからなかった。計算のなにが面白いのか、という思いしかなかった。

だが、理系的知識を突き詰めたところ、つまり計算がほとんどできるようになった先に、従来の計算の世界にないものを求める人々がどうやらいるらしい、と、いまさらながらぼんやりと感知している。

実学、という。工学部の人々、というイメージだ。理系的能力を生かして、物を作る人々。ITなども似たイメージだ。要はモノやシステムを作るために数学的能力を使用する人々だ。

だが理系の中でも、純粋に概念を追求したい人々がいるようだ。工学部ではない、理学部に行きたい、という人々だ。

考えてみれば、文系の私であるが、本当に行きたかったのは文学部だ。文学部では食べていかれへん、と刷り込まれ、断念した。最後は自らで判断したと思っている。

理系の皆さんもどうやらそういう面があるようだ。本当は理学部に行きたい。だが就職のためには工学部だ。そういう流れがあるようなのだ。

そんなことは当たり前だ、と皆さんおっしゃるかもしれない。だがあまりに文系すぎて、理系の世界のことなど考えもしなかった、というのが我が人生なのであった。

理学部はよくわからないが、数学の先生になる人が多いのではないか。大学が高校かの違いはあるだろうが。文学部だと国語教師、というイメージと近い。

まあ、極端な思い込みであろうが、本質的にはそういうことだろう。そして冒頭に戻れば、純粋に文系を追求する人々と、純粋に理系知識を極めようとする人々の目指すところは、存外共通しているのかも、ということを、

思ったのである。

(純粋理系脳の人たちの会話は、なかなか一般人ではついていけない抽象性の高いものらしいですね。。聞いた話ですが)

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