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6月12日 真理とは思惟と存在の一致

昨日から泊りで新潟長岡出張。昨晩は飲みすぎたようだ。

禁断の締めラーメンということで、糖質過多が心配である。今日の昼は弁当、こちらもウインナーに揚げ物とAGEが心配である。

などといっていると、楽しく食事ができないのでは、ということになるのだが、こうしていろいろ関門を持っていることで、たまに食べてもいつでも、ということはないだろうし、アルコールも1週間で平均すれば一日リミットの20gx7日=140gまで一日に集中させてもまあこれはこれで、ということになる。


やはり初めて会った方との飲み会は、個人的には精神的な垣根をとるためのよき手段となる。まずは飲んだ時のエピソードが翌日語り合えるし、そこで飲みすぎたことはとりあえずの話のネタになる。

自分の為に飲むことは減ったが、会社員であればやはり個人的にはある程度飲み会が便利ではあるようだ。

なんというか、飲まずに飲み会に参加してすごく楽しんでいる人、というのがいるらしいが、そのひともやはり基本仕事や友人関係でそういう場にいるのであろう。

真理とは思惟と存在の一致  パルメニデス

すべての思惟は真理を無意識に目指しているものだと思う。そして存在はまさに「存在するから存在する」と言いたくなるようなものであるが、存在と思惟がであう場、というのは、観念的な存在というべきかもしれないが、いずれにせよ、存在がその存在理由に出会うことができる場となりうるであろうし、そして存在が存在理由を思惟により見つけたとき、それは「真理」と呼んでいいいように思う。

まあ、自分でもなにを言っているかよくわからなくなるのだが、思惟は思惟だけではほんとうの真理になりえないし、存在もぼんやりと宇宙というか現生というか、その辺に浮かんでいるものでしかないように思う。

二つが例えば人間の思考空間の中で出会うことが、それだけば真理に到達する可能性をもつのだとしたら。

パルメニデスのつぶやきは、たとえばそんなことを考えさせてくれるのである。

(そもそも「真理」ということば自体が魅力的ですよね)


お志本当に嬉しく思います。インプットに努めよきアウトプットが出来るように努力致します。