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日記3月18日。 #日記  社会的ジレンマについて。

本日の名古屋地区の最高気温は15度、最低11度。昼から雨のようだ。部屋は今14.5度である。

体重は朝食後で67.4kg。体脂肪は12.6%(だったかな)。筋量は56.4kgであった。大体1kgは水分で増えていると思われるので、朝食前だとたぶん66.4kgだろう。昨日帰宅後測ったら、体脂肪率9.6%位だったので(筋量は同じくらい)たぶんそうだろう。

昨日の歩数は、11297歩。今日は在宅でほぼ歩かない(雨だと絶望的)予定なので、少しでも稼いでおく必要があったのだ。しかし歩いていてほとんど底冷え感がない。過ごしやすくなってきたものだ。スポーツセンターから一駅歩いた。34kgダンベル使用で、先回重すぎてFORMが崩れ、腰骨か腰あたりの筋かはわからないが痛めている。こうして重い重量にチャレンジすると、こうして体のあちこちが痛くなる。すごく嫌な感じではないので、だましだまし様子を見ることにする。なにより、新しいもの(今回は重量)にチャレンジすることは、愉しい気持ちになるのがいい。

社会的ジレンマについて。

山岸俊男「安心社会から信頼社会へ 日本型システムのゆくえ」中公新書1999年、を読んでいる。

社会型ジレンマというのは、お互いに協力し合えばみなが利益を得ることができるのに、それぞれの人間が自分の利益だけを考えて行動すると、誰もが不利益をこうむってしまう状況のことです。
p.28  山岸俊男「安心社会から信頼社会へ 日本型システムのゆくえ」

社会的ジレンマ、という言葉をここで知ったのだが、その例としては大きなものではフロンガスや二酸化炭素による地球の温暖化、小さなものでは誰もかたづけようとしない研究室、といったものがあげられている。

この問題が大変に難しいとは常々感じていた。がまんする人がいても、我慢しない人がいるとあほらしくなって自分もがまんしない、という図式を感じていた。これは”人”を”国”にしても同じだろう。我慢しないひとにはさまざまな状況や言い訳があり、その言い訳を知れば”仕方がない”と思うことが多い。自分が生きるため、といわれればなかなか文句は言えない。とりわけこちらはたちまちの(将来は不明だが)問題がない場合は。たまたまの幸運でいま持っているのであれば、不幸にも持っていない我々に文句を言う権利があるのか。そういわれると、辛い。生きるためにアマゾンの森を焼く、といわれれば、駄目だ、という言い方や理由を個人的には思いつけない。

しかしそれではいつまでたっても問題は根本解決しない。私は、もうどうしようもなくなるまでは問題は改善しないのだろう、と半ばあきらめていた。悪くなって初めてあわてて病院に駆け込む、というのと同じである。

ここで山岸氏は、「安心」と「信頼」というキイワードで考証を進める。ここでいう「安心」とは、一般で言えば「信頼」に含まれるものだが、厳密には違っている2つの態度をまとめて「信頼」に入れているので、考え方がぐちゃぐちゃになっている、と説かれる。

安心とは、例えば他人が100万円を貸してくれ、と言ってきて、200万円は確実にする絵を担保にさしだしてきた場合に100万円を貸す人が感じる気持ちのことだ。頼んできた本人の性格や、"返しそうかどうか”は本質的には関係がない。

一方で信頼とは、同じく100万円を貸してくれと言ってきて、担保はなし、ただ相手が返しそうである、という思いだけで貸すような場合だ。ここでは借りての人間性や誠実さ、というものを斟酌して判断するだろう。これがここでいう信頼、である。

上段の安心は、並べてみるとあまり”信頼”の語にはそぐわなく感じるが、しかし実際に貸す際には”ではあなたを信頼して”という外見になるだろう。実際は担保があるから”安心”はすれ、その人を”信頼”しているかどうかは本質的には関係がない(もちろん人格を信頼しているケースもあるだろうが、それは従属的な条件だ)。

山岸氏は、日本社会はいままでは”安心”を担保とする社会であったが、これからは”信頼”(アメリカは調査によると信頼を担保とする社会である。信頼できるかどうか、で判断するという意味で、信頼できる人の割合はこの場合考慮していない。あくまで考え方だ)を基準にした社会にならざるを得ないとおっしゃるのだ。

安心、は実はどちらかというと、そちらで行けるのであれば楽である。信頼は”本当の実際”ベースでの判断であるので、シビアである。人種的同類性が高く、”同調圧力”の語でわかるとおり無言でお互いの行動を規制しようとする社会である日本(コロナによりいまだ日本では”安心”を求めていることがあからさまになったが)では、安心をベースとした社会が、世界でも例外的に(ブータン、とかもそうかもしれないが)可能であったのだ。

震災で語られた「絆」も似た言葉であろう。絆が役に立つ場面はいまだ多い。だがそこにうまく入れずに、疎外感を得て心さえ病む人も少なくないのだ。

”同調圧力”、や”絆強要”でなんとかなるのなら、それはそれだろう。だが将来的には、もうそれではやっていけないだろう。人はもう、それほど画一的ではない。息苦しさがある人がいるのであれば、それではやっていきたくない。

少数者が声を上げる、という動きが、昔よりは間違いなく、ある。既得権へ疑念の声を上げることが、可能になっている。喫煙や飲酒強制、サービス残業にブラック企業。昔は”それを我慢するのが社会人”などと言われていたことが、じわりと良い方向に向かってはいる。じわりと、だが。

どうやって安心社会を信頼社会に変えるのか。実は本はまだ読み切っていない(まだはじめのほう)ので、その解がどう示されているのかはまだつかめない。だが全ての人が、安心ではもう無理だし、変なプレッシャーが必要なのだから、大変だが信頼をベースとした社会にしてゆこう、という理解と意識を持つことしか、その解はない気がしている。これは個人をベースとするが、個人の集合である国同士でも、言えることだろう。

(安心社会は、無言抑圧社会、という面がありますね)




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