会葬御礼

この記事は、2022年8月に実母が逝去した折に書いたものです。
備忘録として残しておきます。

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本日は、お忙しいところ、ご会葬賜り、誠にありがとうございました。
コロナ禍の状況の中でお会いできなかった皆さまにやっとお会いでき、
最期のお見送りをしていただいたことに、母もさぞ喜んでいることと思います。

母(紗代子)は、33歳の時に腎臓病を患いました。
その後、44年間もの長い間、腎不全、心臓病、脳梗塞、糖尿病、リウマチ、アレルギー疾患に悩まされ、主治医には「長くて50歳までの命」と宣告さる中、
今年4月に77歳(喜寿)を迎えることができました。

しかし、世間でコロナ感染が拡大し始めたちょうど2年半前、
腰の圧迫骨折により寝たきりの生活になりました。
仕事は完全リモートワークになり、
私(長女:祐子)は図らずも母と一緒にいられる時間を得ることができました。
これを機に、父と二人三脚での介護生活がスタートしました。
長男:信也も時々手伝いに来てくれ、家族一丸となってのサポートが始まりました。

血圧、血糖値、服薬、排泄、食事の管理等、まるで看護カルテのような管理ノートを作り、週4回の訪問看護サービス、週1回の入浴サービスを受け、自宅介護を続けました。
最近は母のペースもつかみ、寝たきりの生活の中でも、一緒に歌を歌ったり、じゃんけんゲームをしたり、好きなプロ野球の試合を見たり、小さな世界での喜びを目一杯楽しみました。
父のことが本当に大好きで「おとうさーん、おとうさーん」とベッドの中で毎日何度も呼びかけていました。
今年の冬、退院後に、せん妄(神経障害)と認知症(記憶障害)が出始めましたが、
父と私のナナハグ(7秒間ハグ)を開始し、母としっかりと向き合うことで、ほぼその症状は治まりました。
主治医からも「とてもよく管理できています」と通院の度に褒めていただき、また励ましていただきました。
病院と介護サービス、自宅介護で協力体制が整い、このまま好調にいくことを信じていました。

思い返すと、私たち子供が幼少期の頃から、周りの皆さまには随所に温かいサポートしていただきました。
私たち子供が小学1年生と3年生の頃に、母は入退院を繰り返すようになりました。
一年の半分は入院生活。
最初の一年間は、祖父母(故中島正雄さん、故はま子さん)が住み込みで私たち家族の面倒を見てくれました。
二年目からは、母の姉夫婦(榊原清さん・まさみさん)宅で、預かっていただきました。
ちょうど年格好が同じくらいの康子姉ちゃん、成くんが兄弟のように遊んでくれ、とても楽しい子供時代を過ごしました。
父は母の入院代を稼ぐために休みを返上して働き、
遊びに連れて行けない私たち子供のことを周りが気遣って、
ナカシマ(母の弟が経営している会社)の慰安旅行にも何度か連れて行っていただきました。
夏休みには、母の兄夫婦(故中島弘正さん、すみ子さん)宅に滞在し、
初めて映画に連れて行ってもらいました。

このように私たち家族は、周りの協力がなければ成立しませんでした。
皆さまの温かい気持ちの中で、私たち子供は成長しましたが、
一方で言い表せない寂しさをいつも抱えていました。
しかし、母の介護生活が始まり、一緒にいる時間を得られたことで、
幼少期の寂しさを取り戻すことができたように感じます。

最期は自宅で看取ることができませんでしたが、病院で心肺停止を繰り返す中で、最期まで諦めず、母は全力を振り絞って家族の声に何度も応えてくれました。
医師からも「こんな人はそうはいない」と、その言葉だけを頼りに励まし続けましたが、
7月26日 午前1時56分、家族に見守られる中、息を引き取りました。

コロナの状況下でなければ、家族が付き添い、親交の深かった皆さまにもお会いできたのではないかと思うと言いようのない気持ちになりますが、本日最期のお別れにお越しいただきましたことに、家族を代表して改めて御礼申し上げます。

生前、まだ母(紗代子)が若い頃、こんなことを聞いたことがあります。
「お母さんは、自分が死ぬ前に何がしたい?」
この問いかけに、母は、こう答えました。
「お世話になった人に御礼を言いに回りたい」
きっと今頃、母は皆さまの元に行って「ありがとう」と言っている気がします。

※同封の写真は、8ヶ月前(2021年11月23日)に寝たきりの母を連れて、名古屋に遊びに行った時に撮ったものです。マダム風に写った綺麗な母を見てやってください。

皆さまの心の中に生き続ける母(紗代子)と共に、皆さまが穏やかに過ごせることをお祈りしております。

2022年8月
青木 祐子

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