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「言葉に自分の本当の感情を込める」ということは、簡単に見えてとても難しい。


最近、とても丁寧に、健やかに、言葉を紡ぐ人に出会うことが多い。


わたしは、昔から文章を書くのが好きで、漢字にするかひらがなにするか、とか、どこで改行するかとか、いちいち、そういうことにこだわってしまう。

もちろん、読む人の気持ちを考えて、伝わる文章になっているか、誰も傷つけないか、ということも考える。

けれど、それよりもっと大事なのは、自分の気持ちが織り込まれているか、だと、思うようになった。


言葉に心を込める、というのは、チープにも聞こえてしまうほどありきたりなフレーズですが、でも、とても大事なことで、とても難しいことだと思います。

メールにせよ、プレゼン資料にせよ、チャットにせよ、なかなか自分の心の底からの気持ちを込めることは難しい。

メールにはだいたいフォーマットがある。なぜだろう。なぜこのチャットの時代に、お世話になっております。から始まり、何卒宜しくお願いいたします。で終わるのが普通って決まっているんだろうか。(でも、あれを、昔の手紙のような季節の挨拶に変えたらとても美しいと思った。次からそうしてみよう。)

プレゼン資料は、大前提として、合理的でなければいけない(とされている)。感情を入れ込むスタイルのプレゼンもあるだろうけれど、気持ちを入れ込むのは難しい。ビジネスでは、より簡潔に、わかりやすく、そして自分より相手を意識することが大事(とされている)だからだ。

チャットやSNSは、コミュニケーションのスピードが早すぎる。本当に心から何かを伝えようと思って言葉を紡ぐには、手紙くらい速度の遅いコミュニケーションの方が適していると思う。


そして、大して思ってもないことを言ってるタテマエや、その場の思いつきで出てくる言葉を、今日も誰かに渡している。

だから、受け取るときにも、まあ大して思ってもないんだろうな、なんなら、こう言ってるけど嘘かな、なんていう疑った姿勢で言葉を受け取ってしまう。

そんな、言葉のやりとりが、常に空を行き交っている。


でも、こんな現代の文章事情の中でも、フォーマットやメディアの環境に囚われずに、本当の気持ちを、丁寧な言葉で紡いで、手渡してくれる人がいる。あるいは、そういう文章やコピーライティングに出会うことがある。そういう言葉に出会うと、背筋が伸びる。心を、じんわり動かされる。ときどき、泣く。



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最近、SNSでの誹謗中傷は、もっぱらの問題だ。誹謗を非難する人がいる。著名人たちはその酷さを伝え、やめるように訴える。

でも、これだけ言葉に本当の感情を込めることや、本当の気持ちがこもった言葉を受け取る、ということが、稀になっているいま、言葉を通じて感情をやり取りしたことがない人もたくさんいるんだと思う。

誹謗中傷を書いてしまうような人は、丁寧な言葉を手渡してくれるような人が周りにいなかったり、自身も心無い言葉を浴びせられた経験があったり、そういう闇がある、絶対に。

そうして、誹謗の非難を書いている人は、そういう人にさらに心無い言葉を浴びせている。結局顔も見たことのない人へ、その人の奥底も知らずに投げかける言葉という意味で同じ。

誹謗中傷問題は、感情を言葉に込めることを教えない教育と、感情を押し込めるビジネス世界のルール、SNSというプラットフォームを享受している社会全体が悪い、とおもう。(とくにTwitterは、マイナスな感情の吐き捨て場みたいになっているようにしか思えなくてほとんど見なくなった)



だから、わたしは、もし子どもができたら、国語のテストで良い点を取るよりも、言葉に感情を込めるということを教えたい。そして、丁寧な言葉を手渡し続けたい。

毎日の生活や仕事で誰かに言葉を渡すときには、どんな小さな一言でも、一呼吸おいて、心の底から言葉をじわっと絞り出すイメージで、ちゃんと思いを込めたい。

そういう言葉を受け取った数だけ、その人も誰かに手渡せると思うから。


綺麗ごとかもしれないけれど、一番人の心を動かせるのは、人の言葉だと、信じているから。





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最後に・・・これこそ、あんまりプラスの言葉ではないので、あんまり書きたくはないのですが・・・

“リアリティーショー”という一番危ういエンターテイメントは、昔からあったわけですが、このSNS時代にはもうやってはいけないような気がしている。

好きな人も多いと思うし、好きなのも楽しんでいたのも全然いいと思うんだけれど、私はあんまり好きではありませんでした。

そもそも、ドラマや映画などのエンタメは、基本的に架空の役を、人が演じているものです。だから役者は、演じた悪役がどんなに世間から嫌われても、ドラマが終われば、映画が終われば、「役を脱げる」という心の逃げ場がある。その人とその役は別のものだから。

けれどリアリティーショーは、出演者が自分の役を自分で演じている、”架空の物語”。本当の気持ちだと思って話していることも、番組があってこそ起こっている架空の現象だとも言えるし、カメラを向けられたら番組側が喜びそうな展開を考えて言葉を選んでしまうかもしれない。(「ドキュメンタリーの共犯関係」みたいな現象。)

そして、切り取られ編集された自分の“架空の言葉”が、世に出てしまう、と同時にリアルタイムでSNSに悪口を書かれる。出演者は、世間から見ても、自分の心の中でも、「役を脱ぐ」ことはできない。人格否定は、直接胸に突き刺さり、いつまでも残る。

そんなこと、番組作ってる人なら最初から分かっているはずなのに、「みんなが見たいエンタメだから」という理由で、やっていい番組ではなかったんだと思う。なんだかそういう気持ちの悪さを感じていて、最初からほとんど見ていない。

SNSのコメントを見ていると(もうそれだけで疲れるから見なければいいんだけどさ)、「番組は悪くない、加害者が悪い」とかって番組をかばっている人も多いのですが、誹謗中傷の加害者はちょっとスッキリする程度で何の得もしていないけれど、Netflixやテレビ局は、この危うさと引き換えにしたエンタメで巨額の富を生み出しているわけですから、本当にバッシングされるべきは、番組側。

スタッフひとりひとりに悪気はなかったとしても、最悪のケースは想像できていたはず。組織として、責任はとるべきだと感じています。

すごく強い例えで言うと、教室でリンチされているのを、先生も含めてみんなで見ていたら、いじめられていた子亡くなってしまったという状況。完全に、先生の責任ですよね。


これでも番組が続いたら・・・また人命や人の感情よりも、お金が勝ってしまった、と悲しくなるだけですが。時代が変わっていくことを願って。


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