「未来のために、今、我慢する」のは正しいと思っていた時期があった
コーチングのコーチに「10年後、どんな生活を送っているかな?」と質問された。
「会いたい人に会い、行きたい場所に行く生活をしている」
「それから?」
「仕事と生活が交じり合っていて、勤務時間とかあまり意識せずに、ライフワークのような仕事をしている」
「いいね、それから?」
私が何も言えなくなるまで聞き出して、そして言われた。
「それにつながる道を選ぼう」と。
ちょうど、仕事の選択をするタイミングで、悩みの中にいた私は「どんな風にしたら、10年後に私がなりたい姿に近づけるかな」と一瞬考えた。でも、なんとなく、違和感が残った。
しかし、その後、コーチからLINEにメッセージが届いた。コーチは、私の大学時代の先輩であり、新卒の時の先輩でもある、古い付き合いの人なのだ。
「前回のコーチングの時に、10年後の自分を想像してもらって、それにつながる道を歩めるといいよね、という話でセッションが終わりました。しかし、重要な観点が抜けていたので、訂正させてください。
それは、10年後の自分がこの世に存在しているかは保証がない、という視点を見落としていて、ミスリードしてしまったかもしれません。
今は仕事のことで悩んでいますが、仕事だけでなく、どのようにして生きるのか。なりたい将来のためにという視点だけでなく、今の自分のためという視点も同時に持ち合わせて判断してほしいと思います」
このメッセージを受け取ったのは、ミッシェルガンエレファントの千葉さんが亡くなった翌日だった。
小さいころから「将来のために」とか「あとで苦しまないために」と言われて、勉強や習い事をさせられてきた。私が自主的に学び、何かを習得したいと考えられるようになったのは、大学生になってからだった。
三つ子の魂百までだからだろうか。苦しみこそ、幸せへの布石と信じていた時期があった。将来のために、今を差し出す。
この感覚に慣れてきてしまっていたけれど、苦しみや、違和感を感じる日常の先に、望む未来などないのではないか、と最近思い始めている。
毎日納得して、生きていく。その先にこそ、なりたい自分や叶えたい夢がある。毎日納得するというのは、けして、ラクをする、という意味ではない。つらいこともあるだろうし、踏ん張るべき日もあるかもしれない。でもそれは、本意ではない頑張りではないはずだ。
「望む未来のために」ではなく「明日死んでも後悔しないように」生きようと、思っている。
ライターさとゆみさんの毎朝7時に更新、24時間で消えてしまうショートエッセイ「CORECOLOR編集長 さとゆみの今日もコレカラ」。これを読んで、「朝ドラ受け」のようにそれぞれが自由に書く「今日コレ受け」。
今日は”10年先を見据える”という言葉になぜかめちゃくちゃ反応してしまった。
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