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今日も長女は鏡の前で

長女は現在14歳。最近は、鏡の前にいる時間が増えた。そして、私が彼女くらいの時期に何度も思っていたことを、彼女もまた、思っているようだ。ときに、それを口に出す。
「もっと可愛くなりたい」と。一重の彼女は「二重になりたい」とぼやく。娘は誰がどう見ても私にそっくりで、私も10代のころは一重だった。そして同じく「二重になりたい」と思っていた。
10年後、すでに老化を始めた私の瞼は、たるんで二重になった。だから「あと10年後には、一重がいいと思ってても、二重になる運命だから、大丈夫だよ」と伝えているが、「今、なりたいの!」とのたまう。そりゃそうか。

変わりゆく美しさの基準の中で

大人になった私は、いろんな美しさ、可愛さがあるのだから、今、SNSなどでよく見る「美人」とは離れていても、それでいいじゃないか、と娘に言う。だいたい、美の基準なんて、時代や文化背景により、どんどん変わるのだ。

そんなこと言って「そうか」と言えるようなお年頃でもないし、たとえ頭でわかったとしても、「でももう少し鼻が高ければ」とか「肌がきれいになれば」なんて思わないようになるわけでもないのは、重々承知だ。

「顔」はその人の「顔」になる

顔は実際、その人の印象にも直結する。
私自身も、やはり人に会うときにまず見るのはその人の顔だ。そして、記憶に結びつけるときも、名前と顔が一致して初めて親しみを覚える。その人を思い出すとき、やはり顔がうかぶ。だから、その顔を、自分の中で「良い」と思える状態にしたいということは、とてもよくわかる。

でも、整った顔が好きになるかと言えば、そうではないのではないか。
「彼の顔が好きなの」という友人もいるけれど、よく聞くと「失敗したときのはにかむ顔がいい」とか「私にだけ向けてくれる満面の笑顔がいい」とか、結局表情なのだ。実際、私は、その人の表情や、目線、目の動きが気になる。たまに、表情筋をあまり動かさない人がいるけれど、そんな人の場合、どんなに端正な顔立ちでも、すごく怖くてどうにも好きになれそうにない。実際、本当にモテる人の顔は、アンバランスなんだそうです。左右対称の整った顔は、怖い印象を与えるんだって。

だから、顔は、そのパーツパーツが整っているかとか、それがキレイなバランスで配置されているかは、正直関係ないのではないかと思う。その人のことを思い出すときに、顔も一緒に思い出すのは、その人の人柄を可視化できる部分が顔だから、なのではないだろうか。つまり結局、その人の人柄を思い出しているともいえる。

どんなに目がぱっちりしても、どんなに鼻が高くなっても、どんなに「今」なりたい顔のパーツになったとしても、結局魅力的な人というのは、その人柄にあると、私は今思っている。目じりにできた皺や、右側だけに濃くあるシミに、その人の歴史を感じる。毎日を生きてきたんだな、と思うと、愛しさもわく。

私のしゃくれ気味のあごは、祖母からのプレゼントだと、最近は思えるようになった。そんなことを思うと、もう「二重かどうか」とかあんまり気にせずに、自分最高、みんなも最高と思って、たくさん感情を顔に表していってほしいと思う。

それは、私が大人になったからわかったことなのかもしれないけれど、できれば早く娘にも心から理解してほしい。せっかくメイクするならば「もっと可愛くならなくちゃ」と思ってするよりも「もっと私の魅力を出すために、メイクする。たのしい!」って思ってほしいなと思う。ただの私の独りよがりな価値観だけれど、伝え続けたい。

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