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以前、母は月であった[47/100]

 元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く、病人のような蒼白い顔の月である。

小林登美枝・米田佐代子編『平塚らいてう評論集』(岩波文庫)

女性解放運動の先駆者、平塚らいてうのこの言葉を知ったのは、中学の時、塾の授業でだったと思う。

サボるか、寝るかの塾の授業において、珍しく関心を持って聞いたのを覚えている。

この言葉を聞いた時、母の顔が浮かんだ。
女性は4年生大学を出た方が就職先が狭まると言われた年代の人だ。それでも学びたいと、父親(私から見たら祖父)に頼み込み、茶道、華道、着付けを習うならば、4大に行っていいと許可が出たと聞いた時には眩暈がした。

結局、大学卒業からほどなくして父と結婚し、専業主婦になった。母は私がまだひらがなも書けないような時期から「学ぶことができることのありがたさ」を説き、「自分で稼いで食べていけないこと」の窮屈さを嘆いていた。

その腹いせだろうか。それとも、娘を通して自己実現しようとしたのであろうか。母は、私のほとんどをコントロールしようとした。だから、私自身もまた、月であった。母によって変化する、月。

そんな母であったが、中学に進学するタイミングで持っていた資格を使って非常勤職員として働き始めた。そこから、母の第二の人生が始まったようだった。私が高校の頃には再度大学に入り直し、念願の国家資格を取った。私が社会人になるころ、長年の夢を叶え、やりたかった仕事に就いた。今もまだ現役で働いている。太陽でありたい人だったのだろう。

一方で、では父は太陽であったのかと考えると、そうではなかったように思う。父もまた、月であった。
会社によって変化を要求される、月。

24時間、戦えますか?
というキャッチコピーが流行った時代の、まさに企業戦士であった。

父もまた、娘たち(私と妹)が社会人になってしばらくして、早期退職し、若かりし頃から憧れていたという仕事に就いた。父もまだ現役で働いている。

社会に適合しようとするとき、場合によっては社会、会社、組織を太陽として、月に徹することを求められるのかもしれない。父も母も、そして私も、月のポジションに行くと、欲求不満のカタマリになり、よくない空気をばら撒く。一方で、妹は月に徹するほうが居心地が良いという。太陽を支えたいと。

月と太陽、どちらがいいというわけではない。
どちらでもいい。
ただ、無理しない方の生き方を、ストレートに選べる時代になりつつあることに感謝している。

少なくとも、今の私は父や母に比べて、許容度の高い世界を生きている。

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