トーベ・ヤンソンのセクシュアリティについて(4)「女性との恋」

トーベ・ヤンソンのセクシュアリティについて考えるために(1)
(2)「最愛の男性、親友の女性」
(3
)「ボーイフレンドたち」
note使い慣れていなくて、マガジン化してみたけど順番に並べ変えすらできないのですが、こんな感じで続いておりまして、1946年の秋の終わり、ヴィヴィカ・バンドレルとの出会い、まで来ました。
(1)でもリンクを貼った、ムーミン公式サイトの記事「私は女性と激しい恋に落ちてしまった」  トーベ・ヤンソンの人生と仕事における同性愛 Part1で詳しく知ることができますし、映画『TOVE』(仮)のもっとも盛り上がるところではないかと思いますので(まだ未見なので予測ですが)、あまりディテールには触れずにさっくりと時系列で紹介していきます。

ヴィヴィカ・バンドレル(ビビカ、ヴィヴェカ・バンドラーといった表記も)はヘルシンキ市の財務部長の娘で、家族は牧場を所有しており(そのためか、映画監督を志しながらも女性であるがゆえに機会に恵まれず、農学の学位を取得した、という一面も)、彼女の妹のエリカがトーベの弟のラルスと交際していたという縁で、ふたりは知り合います。初対面の印象はあまりよくなかったようですが、戦後、まだそんなに頻繁には開かれてなかった貴重なダンスパーティーの場でうちとけてゆき、燃えるような恋へと発展します。
1946年12月、トーベが友人のエヴァ・コニコフに書いた手紙は公式サイトのブログでも紹介されていますが、少し訳が異なるので、評伝『ムーミンの生みの親、トーベ・ヤンソン』から引用してみましょう。

「あなたに話さなくてはいけないことが起きたの。本当に幸せで、嬉しくて、自由になれた気がする。あなたも知っているように、私はアートスの妻のつもりでいたし、これからもそう思いながら生きて行くと思う。でも今、私には本当に愛している人がいる。その人は女性よ。まったく違和感はないし、本当の気持ちだと感じられる。何も問題だとは思わないわ。自分が誇らしいし、嬉しさが抑えきれない。この二、三週間は、ずっと夢のようだった」
「よく知っていると思い込んでいた古い家に入って、新たに素敵な部屋を見つけたような。どうして今まで気づかなかったのか、不思議」
「ヴィヴィカと話していると、自分の中の素敵な部分を再発見できる気がする……わかる? 誰かを愛しているとき、自分が女性だと実感するのは初めてよ……彼女になら、恥ずかしがらずにすべてを打ち明けることができる。(略)まるで生まれ変わったみたい。自由で幸せだし、何の罪悪感もない」
「私は完全なレズビアンではないと思う。ヴィヴェカ以外の女性を好きになるなんて考えられないし、男性に対しても今までと変わらない。いいえ、男性との関係は、前よりもよくなっている」
『ムーミンの生みの親、トーベ・ヤンソン』 (河出書房新社、トゥーラ・カルヤライネン著、セルボ貴子、 五十嵐淳訳)より引用

手紙にもあるとおり、トーベとアトスは事実婚状態で、ヴィヴィカには1943年に結婚した夫クルトが(後に、ヴィヴィカとクルトはムーミン小説のドイツ語訳に尽力。ふたりは1963年に離婚)。また、トーベのほかにも女性の恋人がいました。クルトはスウェーデンに住んでいて、ヴィヴィカもあちこち旅行することが多く、情熱的な3週間を過ごした後、彼女は旅に出てしまいます。離れて過ごす時間が長かったからこそ、ふたりの間には熱い手紙が行き交うことになりましたが、当時、同性愛は犯罪で、検閲もあったため、慎重になる必要がありました。
結局、トーベとヴィヴィカの恋は長くは続かず、1947年6月にトーベは別れの手紙を送り、その年の夏には完全に終わってしまいます。しかし、ふたりをモデルにしたキャラクター、トフスランとビフスランが生まれたり(『たのしいムーミン一家』などに登場)、ムーミンの舞台作品を共に作り上げたり、その恋は多くのものをもたらしました。その友情は生涯に渡って続き、ヴィヴィカから着想を得て執筆した第5作『ムーミン谷の夏まつり』は彼女に捧げられています。

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1947年、ヴィヴィカの父から発注を受けてトーベが手がけたヘルシンキ市庁舎の食堂を飾るフレスコ画には、トーベとヴィヴィカの姿も。その絵は現在、ヘルシンキ市立美術館(HAM)に展示されており、日本語の解説にもトーベとヴィヴィカのことがしっかりと記載されています。

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1947年6月、エヴァに宛てた手紙には「アートスのあとにはほかの男性は現れないし、ヴィヴェカのあとにはほかの女性も現れない」(『ムーミンの生みの親、トーベ・ヤンソン』 より)とあります。とはいえ、手紙も日記も、その時点での考え/感情を綴ったものであり、人は変化していきます。
ヴィヴィカ=最初の女性との恋愛から数年間、仕事の面では充実した日々でしたが、私生活での迷いや悩みをエヴァに書き送っていました。

「それから数年間に渡って、トーベはプライベートな面でも仕事の面でも、自分自身を模索し続けていたようです。男性、女性ともに関係を築き、絵画の制作とムーミン・シリーズの仕事の間でもバランスを取ろうとしていました」
トーベとトゥーティ 世紀の愛の物語  トーベ・ヤンソンの人生と作品における同性愛Part3より引用

ここでいうところの「男性、女性」が誰のことなのかははっきりしません。1591年にはヴィヴィカとイタリア、北アフリカ、パリを旅行しているのですが、プラトニックな友人関係だったのか、恋愛関係が再燃していたのかわかりません(映画では、このときパリのナイトクラブで、後に生涯のパートナーとなるトゥーリッキ・ピエティラと偶然遭遇したことが描かれているようです)。

1952年、1943年から続いていたアトスとの関係を完全に清算。その後、一時期、金細工職人のブリット・ソフィ・フォッシュという女性と恋愛関係にあったと言われています。

そして、1955年のクリスマス、『トーベ・ヤンソン  仕事、愛、ムーミン』によればアーティストが集まるパーティーで、『ムーミンの生みの親、トーベ・ヤンソン』によればフィンランド芸術協会のクリスマスパーティーで、トーベの通訳を務めたことのあるビヤネール多美子氏の随想『スウェーデンの小さな庭から』(オークラ出版)によれば「女たちだけの」仲間のパーティーにおいて、持ち寄ったレコードをかける蓄音機の前で、トゥーリッキ・ピエティラと再会しました(学生時代、同時期にアテネウム美術学校に通っていたものの、トゥーリッキは何歳か年下で、スウェーデン語を母語とする学生とフィンランド語を母語とする学生はグループが異なったため、ほとんど交流はなかったそうです)。トーベは内気そうなトゥーリッキをダンスに誘いますが、断られてしまいます。その後、トゥーリッキが縞模様の猫のイラストをポストカードを送り(そのカードはトーベのアトリエにずっと飾られていました)、ふたりは電話で連絡を取り合うようになって、1956年3月、トーベがトゥーリッキのアトリエを訪ねて、“世紀の愛”が始まったのです。
映画『TOVE』では後半生は描かれていないようなのですが、トゥーリッキとの関係もとてもロマンティックで素敵なので、続編が作られたらいいなぁと思います(トーベとトゥーリッキが自分たちで撮影した映像をもとにしたドキュメンタリー作品『Haru, the Island of the Solitary~ハル、孤独の島』『トーベとトゥーティの欧州旅行』もDVD化されています)。

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2017年にヘルシンキのアテネウム美術館で開催されたトゥーリッキ・ピエティラ回顧展に行きました。トーベのパートナーとして語られることが多いのですが、自身も優れたグラフィックアーティスト。キービジュアルに使われていた、トーベと飼っていた黒猫のプシプシーナの絵のほか、大胆な色使いと構図の作品が印象的でした。

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クラフト作家としては、ムーミンの名場面を立体化した数多くの作品をタンペレのムーミン美術館で見ることができます。
↓ムーミン美術館内部は基本的に撮影不可なのですが、これは美術館移転準備期間に特別公開されていた展示の写真です。トゥーリッキが手がけた立体フィギュアを修復している様子。

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アラビアのフィギュアの原型を作ったのもトゥーリッキ。これは現在も復刻版が販売されています。このフィギュアについてはこちらに記事を書きましたので、よかったら。

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トーベとトゥーリッキの気持ちが伝わってくる言葉も、少し引用しておきましょう。

「一緒にいたいと思う人が、ようやく目の前に現れました」
ときめきと安らぎが入りまじる、今までにない気持ちだった。(略)
「愛は時間を忘れさせてしまう。そして花壇の花のように育っていく」(略)
「愛してるわ。心を奪われるようよ。でもすごく、安らかなの。踏み出すのに覚悟が要るとしても、私は怖くないわ」と書くトーベにトゥーリッキはこう答えた。「トーベ、あなたのことを私がどんなに愛しているか!」
『トーベ・ヤンソン  仕事、愛、ムーミン』(講談社、ボエル・ウェスティン著、 畑中麻紀、森下圭子共訳)より引用
「楽しいときも、穏やかなときも、わたしはあなたを愛している。たとえこの先、何がわたしたちを待ち受けてようとも」
『ムーミンの生みの親、トーベ・ヤンソン』 (河出書房新社、トゥーラ・カルヤライネン著、セルボ貴子、 五十嵐淳訳)より引用

ムーミン仕事にうんざりしていたトーベにインスピレーションを与え、『ムーミン谷の冬』の完成を支えたトゥーリッキは、そっくりなキャラクター、トゥーティッキとして同作に登場しています。また、孤独なクニットが勇気を出して一歩を踏み出し、愛を見つける、絵本『さびしがりやのクニット』はトゥーティッキに捧げられています。

さて。ここまで、トーベ・ヤンソンの私生活、セクシュアリティに焦点を当ててご紹介してきました。トーベがその生涯において大切にしていたこと、自身が作成した蔵書票にも刻まれていた言葉はラテン語で「働け、そして愛せよ」(この言葉は評伝のタイトルの元にもなっています)。何よりも、自由に作品を生み出すことをいちばんに考えて生きた人でした。いまさらではありますが、その歩みや生涯についてはこちらの年表記事もぜひご覧ください。

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