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英ガーディアン紙のアンディ・パートリッジ(20/Oct/22)のインタビュー。「私の夢は死んだ」。XTCのアンディ・パートリッジ、精神疾患、音楽業界との戦い、インスピレーションの喪失を語る。


英ガーディアン紙のアンディ・パートリッジ(20/Oct/22)のインタビュー。写真を見た途端、もう内容が分かったような気がして、なかなか読み進めることができなかった。悲しい、なんか悲しいのよ。


数年前にこのドキュメンタリーを観て、再結成はもうないのかなあ、と、がっくりきていたところだったけど、このインタビュー読んで、再結成どころか、アンディ・パートリッジが表に出てくることもなさそう?

内容が時系列ではないので話が飛ぶが、今のアンディの様子が少しでも理解できるのは有難いと思った。という訳で全訳。


「私の夢は死んだ」。XTCのアンディ・パートリッジ、精神疾患、音楽業界との戦い、インスピレーションの喪失を語る。

ファーガル・キニー

40年前、XTCが絶頂期だった頃、パートリッジはブレイクダウンを起こし、ツアーを中止した。新しいアーカイブEPをリリースするにあたり、彼はその引き金となった不穏な子ども時代そして依存症、スタジオが避難場所だったことーーーさらに、曲を書くのをやめた理由について語る。



アンディ・パートリッジは、ロサンゼルスの緊急治療室で、銃弾を受けた二人の患者の間で、担架に横たわりながら、もう二度とライブを行うことはできないと考えていた。彼のバンドXTCは、そんなことは知る由もなかった。彼らはちょうど最後のライヴを行ったところだったから。「私の夢は死んでしまった」とパートリッジは言う。あれから40年、その記憶に声を詰まらせながら。

1982年、XTCはーーー今でも最もよく知られた曲"Making Plans for Nigel"の成功もあり、商業的に絶頂期にいた。しかし、パートリッジは苦しんでいた。母親が一時的に精神科病院に入院した後、12歳の時に処方されたバリウムをやめようとしていたのだ。「当時は60年代だった。"かわいそうな子供だよ、動転しているじゃないか。母親は頭がおかしいし、バリウムを与えとけば?"と。僕は中毒になった」。

1981年のアメリカ・ツアーの最中、彼はバリウムを断ち切ることにした。「その後1年間、脳が溶けてしまった」と彼は言う。彼は記憶喪失や動けなくなる発作に悩んだ。マネジメントとレーベルであるヴァージンに何度も警告したが、無視され続けた。「私は彼らのために金の卵を産まされていた」。

パリでのテレビのライブショー中にパニックアタックを起こし、その後、バックステージでうずくまっているところを発見された。そして数日後、パートリッジはアメリカ・ツアーを開始するために飛行機に乗り込んだ。バンドはハリウッド・パラディアムでのソールドアウト・ショーでプレイするはずだったが、パートリッジは病院に運ばれ、キャンセルされた公演は、バンドに莫大な借金を負わせることになった。

パートリッジは、ツアーからの撤退は、ある意味幸いだったと言う。「レコードを作るのが好きだと言えるようになったのは、レコードが再生用に作られる必要がない(ライブでプレイする必要がない)ということが分かってからだ」。彼はスタジオの魔術師としての評判を高め、XTCは2006年に解散するまで、さらに7枚のアルバムをリリースしている。しかし現在、彼は曲作りをやめてしまった。年をとるにつれて「怒りと戦い」を失ってしまったと言う。このインタビューをアレンジするにあたり、彼に連絡を取ったとき、彼は「引きこもり時期」に入ったと言い、当初気乗りしていなかった。

どういう意味なのか?「それはフィーリングだから、難しいんだよ」。丸メガネをかけたパートリッジがFaceTimeで、スウィンドンの自宅から説明する。「クソ'老いぼれる'ってことだよ」。来年70歳になる彼は、心臓の状態が思わしくなく、耳鳴りが原因で過去に自殺を考えたこともある。また、子供の頃から持つ強迫性障害(OCD)もある。

このインタビューの機会を得たのは、『My Failed Christmas Career(失敗したクリスマス・キャリア)』というアーカイブ・シリーズの最新作のリリースに伴うもので、パートリッジが他のアーティストに売ることを意図して書いたフェスティブ(クリスマス)・ソングを特集したものだ。ザ・モンキーズにより録音された2曲以外は、買い手がつかなかったという。彼はクリスマスを楽しんでいるのだろうか?「ああ、素晴らしいね」と彼は強いウェスト・カントリー訛りで言う。「すべてpaganismからきているからね」。

彼は、20年前の "クリスマスの出来事"の話をする。「子供たちのためにちょっとしたショーをしようと思ったんだ」。パートリッジはファーザー・クリスマスに扮して子供たちと両親のために料理を作った。シャンパンを飲み過ぎた彼は、”何年もの間溜め込んでいた怒り”を母親にぶつけてしまい、ボトルを片手に夜な夜な外へ出て行ってしまったのだ。「結局公園の濡れた泥の上に横たわり、自己回帰的、原始的瞬間を感じていた」。地元警察は、泥まみれで涙ぐんでいるサンタを発見し、家族のもとに連れ返したのだった。

パートリッジは1953年にマルタで海軍の家族のもとに生まれ、2歳のときにスウィンドンのカウンシル・ハウスに移り住んだ。一人っ子で、父親が海軍の仕事で長い間不在だったため、母親の“強迫性障害“とともに取り残された。

「母親は私をいわば犬のように扱った」と、彼は声を詰まらせながら言う。「つまり私は必要とされていなかったということだ」。友人の家に行き、そこで観た、ビートルズ・テーマの壁紙に釘付けになったことを覚えている。「短パンにダッフルコートをはおり、『ハード・デイズ・ナイト』を観に行った」。その後、ギターでビートルズの曲を習い始めた。

緑のアイシャドウ、母親のブラウス、3フィートの虎の尾で着飾り、パートリッジは、小さな町の異端者として自分自身を確立した。彼は、自身のバンド、スター・パークへ、ベースにコリン・モールディング、ドラムにテリー・チェンバースをリクルートし、その後、キーボードのバリー・アンドリュースを迎え、1975年、バンドはXTCとなった。パンクの爆発的な人気の一端として、ちょうどヴァージンと契約するのに間に合ったところだったが、彼らの神経質な奇抜さは、どちらかというと、70年代後半に一緒にツアーをしたエルビス・コステロやトーキング・ヘッズに近かった。

これらの偉大なメトロポリタン・ニューウェーブのアーティスト達との類似性ーーさらにアメリカの同輩からも認められていたーーにもかかわらず、パートリッジは、彼らが小さな町の出身であるということがイギリスのリスナーに彼らを偏狭なもの、と思わせてしまったと考える。「イングランドとウマが合わなかった理由の一つとしては、スウィンドンがジョーク・タウンだったから」と、パートリッジは言う。というのも、ヴァージンから訛りを無くすように言われたからだ、と振り返る。「 ‘それは出来ない。私たちはウエスト・カントリー出身だ。私たちはこのように話し、このように考える‘と言ったんだ」。

パートリッジは、バンドを"慈悲深い独裁者"として維持しようと奮闘し、1978年、アンドリュースを解雇、その1年後にバンドの秘密兵器であるもの柔らかなギタリスト兼アレンジャーのデイヴ・グレゴリーを加入させたと語る。モールディングは曲作りを始め、バンドの驚くべきトップ20ヒットとなった"Making Plans for Nigel"を作曲した。この成功がきっかけでバンド内のコントロールを失うことを恐れたパートリッジは、さらに良い仕事をしようと試みた。1980年の『Black Sea』までに、2人のソングライターは洗練された複雑なギター・ポップをどんどん生み出すようになり、XTCは充分な成長を遂げた。驚くべきことに、バンドは初の本格的なマスターピース、1982年の『The English Settlement』をレコーディングしているが、それは、パートリッジがバリウムをやめている間だったのだ。「世界を股にかける飲み仲間にいたのはスリリングだった」とパートリッジは商業的絶頂期を振り返る。「しかしそれもすぐに無くなっていった」。

ツアーをやめた後、1983年の『Mummer』のような素晴らしいレコードは、商業的に大失敗した。ある日、チェンバースはリハーサルから抜け出し、二度と戻ってこなかった。しかし、キャリアの救済は、思いもよらない形でやってきた。1985年、キャンセルされた制作の仕事で余ったスタジオ時間を使って、XTCは、低予算で、自分たちが育った1960年代サイケデリアの愛情のこもったパロディをレコーディングしたのだ。デュークス・オブ・ストラトスフィアという別名でリリースされたこの作品は、商業的に最近のXTCの作品を馬飛びし、これにより、バンドはヴァージンとの時間を稼ぐことができたのである。


「僕たちはワイドスクリーンになっていった」とパートリッジは言う。「鮮やかな色に」。1986年の高く評価された『スカイラーキング』のことだ。。この作品の不安定なセッションは、プロデューサーでアメリカのプログレのレジェンド、トッド・ラングレンとパートリッジと一触即発の関係のおかげである意味伝説化している。本当にそこまで悪かったのだろうか?「部屋の隅に斧があったかもしれない」とパートリッジはニヤリと笑う。「‘もしあんたがこのまま進めようって言うなら、あんたのファ〇キン・ヘッドをこれでぶち壊してやるよ‘って言ったかも」。

XTCの1990年代は、秋を感じさせるゆったりとしたアルバム『Nonsuch』で勝利の幕開けとなったが、その後、パートリッジの人生において最も辛い10年間となる。ヴァージンが"Wrapped in Grey"ーーービーチ・ボーイズから大きくインスパイアされ、パートリッジにとって最も人生を肯定する曲のひとつーーーのシングル・リリースをキャンセルしたとき、彼はバンドにストライキを呼びかけたのだ。

「私たちが何かをレコーディングすれば、(ヴァージンが)それを所有することになると分かってた」と、パートリッジは言う。彼は、今でも「お金を貸してアルバムを作らせ、それを所有しようとする」業界に対して強く反対している。ツアー収入がなくなり、パートリッジだけが作曲の印税でまともな収入を得ていたが、バンドは無一文だった。名前こそ出さないが、ストライキの最中最悪だったころ、バンドの一人が高速道路で違法にガソリンを売ることもあったとパートリッジは言う。彼はブラーのセカンドアルバムのプロデュースに招かれ、バンドはパートリッジが彼らのジョージ・マーティン的存在になることを望んだ。しかし、バンド内に“ドラッグが蔓延り過ぎた“と彼は振り返る。パートリッジはクビになった。

パートリッジは1979年にマリアンヌ・ワイボーンと結婚し、2人の子供にをもうけたが、1994年に離婚。その後アメリカの映画相続人エリカ・ウェクスラーと交際を始めたが、彼女は、年上のロイ・リキテンシュタインと交際中だった。「不公平に聞こえるかもしれないが、私は、彼女に最後通牒のようなものを突きつけたんだ」と、パートリッジは言う。二人のポップアートの巨匠の間で選択を迫られたウェクスラーは、それ以来、スウィンドンに住んでいる。

結局ヴァージンから解雇されたXTCの3人は、次の手段を企てた。40人編成のオーケストラとアルバムをレコーディングして、自らを再び有名にするのだ。だがバンドは資金不足だったため、シンフォニー奏者達を雇うことができるのはたった1日だけだった。長い間苦しんでいたグレゴリーはついに耐え切れなくなりバンドを去った。その結果、1999年に『Apple Venus Volume 1』リリースされたが、当作はメイポール(五月祭)や収穫祭など、古くて奇妙なイングランドを深く分析した、彼らのベストアルバムと言えるだろう。「自然とははまさにセックスであり、そのすべてを放さないことがとても重要なのだ」とパートリッジは言う。「君は元キング・オブ・メイと話をしているのだよ」。

頻度が低くなったとはいえ、その後のXTCのアルバムの中心は、常に静かな生活へのモールディングの紳士的な説教だった。2006年、彼の庭の小屋スタジオに関しての口論からバンドは解散、スウィンドン・アドバタイザー紙で発表された。「私がバンドを混ぜくっていると思われたくない」とパートリッジは言う。「私は彼らを本当に愛している。一人っ子で、兄弟というものを知らなかったが、彼らはまさに私の兄弟だった」。

80年代初頭にXTCがスタジオに引きこもった後、ファンは自分たちの大好きなライヴ・アクトが二度と戻ってこないことが分かり、1989年、初のファン・コンベンションが開催された。9月、スウィンドンのハイストリートにある古いアールデコ調の映画館に150人以上のファンが集まり、イングリッシュ・セディメントのリアルエール(ビール)、バングラによるXTCヒット曲の演奏、バンド全盛期にパートリッジが被っていた帽子のチャリティー・ラッフル(くじ引き)などを楽しんだ。

「スウィンドンにいるなんてとてもシュールだわ」。アシュリーは熱っぽく語る。彼女は、親友のレクシーと一緒に、XTCの1979年のアルバム『Drums and Wires』のジャケットが施された手編みのジャンパーを着てわざわざカリフォルニアからこのコンベンションに参加した。「彼らはビートルズに近いかもしれない、でもビートルズよりいいのよ」。

ビデオリンクを通して待望の会見を対処したパートリッジは、ファンベースを誇りに思いながらも、この祝賀会が彼の強迫神経症をひどく誘発する、と告白している:というのも、彼はその週末、自宅の2階に閉じこもっていたのだ。以前自分が自閉症であるとほのめかしていたが、正式な診断を仰いだことはあるのだろうか?「おそらく自分はそのスペクトラムであると思う。そう、それで僕は助けられたし、それ以外に生きる方法はないんだよ」。


パートリッジは地元ではめったに姿を見せず、夜行性で家にこもって軍事史をむさぼり読んでいる。彼の膨大なおもちゃのコレクションーーーほとんどが兵士で、自分で作ったものもあるーーーは、すべてのディスプレイのほぼ全面を覆っている。ソーシャルメディアをやってみたが、中東の政治に関する議論で反ユダヤ的な比喩を使ったという疑惑を受け、辞めた(今日は話す気になれないとのこと)。彼は、オンライン・フォーラムで見知らぬ人と政治について議論するという趣味をあきらめ、今は“UFO関連イベントを調べる合間に、音楽の制作欲が降りてくるのを待つ“日々を送っている、と私に言った。

彼は最近、「ストレンジャー・シングス」のおかげで新しい世代がケイト・ブッシュを再発見するのを羨望と承認を持って見ていた。「ニック・ドレイク・モーメントを待ち望んでいる自分がいるよ」と彼は言う。かのフォーク・シンガーが車の広告により再登場したことを言っているのだ。

午後も終わりが近づき、私はパートリッジに、音楽業界との長い戦いの中で自分は勝ったかと思うかと尋ねた。間髪入れずに大笑いした。「もちろん、勝ったよ!」彼は怒鳴った。「私はそこから抜け出した。彼らは彫刻家でも画家でも詩人でもない。彼らが持ってるのは金だけだ。そして、金には何の価値もない」。

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なんだか、負け惜しみなのか、サーカスティックになっているのか、それも含めてアンディ・パートリッジなのだろうとは思うが、なかなかモヤモヤが残る内容だった。

同じ街にいるにも関わらず、コンベンションにビデオで参加とか、ケイト・ブッシュを羨ましく思っているとか、やること、考えることが彼の弱さを表しているのも、人間味があって良い、と感じた。



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