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戦後レジームと学生運動2『闘う小児科医 ワハハ先生の青春  山田真』に見る 東大紛争の闘争の論理 

いわゆる「戦後レジーム」を追いかけていると、学生運動の影響は外せない。

彼らはどうやって運動の世界にたどり着き、何を追いかけていたのか?

東大紛争の発端となった、東大医学部での学生運動を内側から描いた、一冊の本を見つけた。

 

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『闘う小児科医-ワハハ先生の青春 山田真 ジャパンマシニスト社 2005』

10代続く岐阜の医家の子弟である著者が、東大医学部に入って学生運動に明け暮れ、活動家医者になっていく様子が克明に描かれている。
 

東大紛争の火種

「反権力」と「団結」にとりつかれた学生

なかなか面白いのは、山田氏は、「デモ」にはあまり縁のない方であったらしいということ。

「アカになるからデモに行くな」っていう母親の言いつけを守って、デモには寄り付かずに雀荘通いで済ませていたのに、うっかり民青に入っちゃっう(で、あっという間に遠ざかって、全共闘運動。後に公害闘争やら障害者運動やらに燃えちゃう)とか、ちょっと理解しがたい。

東大紛争は、インターン制度問題が発端のようではあるが、卒業目前に、60日にわたるスト(卒業試験のボイコット)をやったようで、それにより、氏は無期停学の処分をうけ、その後処分解除になって遅れて卒業しているようである。

実際のところ、このストライキは、ぼくたちの自発意思というよりは、一学年上のSさんのアジテーションで、すっかりマインドコントロールされてしまったぼくたちのクラスがストを続けるうちに自己陶酔するようなかたちになって続けられていたのです。

『闘う小児科医-ワハハ先生の青春 山田真 ジャパンマシニスト社 2005』

先輩のアジテーションによってマインドコントロールされて、自己陶酔状態になり、闘争が続けられた、ということのようで‥絶対無責の世界に住んでいたようである。

そして、ぼくたちのクラスは、「スト破りした六人が東大病院にインターン生として来ることを許さない。もし来たら実力でたたき出すと、高らかに宣言したのです。

『闘う小児科医-ワハハ先生の青春 山田真 ジャパンマシニスト社 2005』

ぼくたちの挑戦的な、いまになって考えると相当に無茶な宣言を無視して、六人は病院へやってきました。そこで、ぼくたちはパトロール隊を編成して病院内を巡回し、六人を見つけると暴力的に大学の外まで押しだしてしまうということを始めたのです。

『闘う小児科医-ワハハ先生の青春 山田真 ジャパンマシニスト社 2005』


当時の著者は「クラス一体となっての闘争であるべし」のような感覚でいたのだろうな、と思える一節。

100人もいて、ただ同じ大学の同じ学部ってだけで連帯できるわけないだろが‥と思うのだが‥やはり、それ以前の学校教育が、山田氏を含む一部の学生にかなりの影響を与えていたのではないかという気がしないでもない。

スト破り(試験ボイコット破り)をした者を、班を作ってパトロールして実力行使で排除とか‥、ここまで行くと「お祭り」ですらない。

「デモ」や「フォークゲリラ」のほうが「お祭り要素」があるので、若い学生たちが勢いで参加、というのも理解できなくもないが、ここに出てくるのは裏切り者排除のための自警団という感じである。

「医局講座制という権力」に対する「反権力」を標ぼうしての運動であったようだが、「自治権力」として同級の医学生を、卒後研修から締め出そうと排除している。

非常に集団主義教育の香りが濃厚である。
そして、その中心に山田氏がいたというのである。

そして翌年1968年

山田氏は1968年の東大紛争の燃え広がりとも近い位置にいたようだ。

1968年2月19日、話し合いを要求する学生と、拒否する病院長のトラブルがあり、付随して内科の医局長とのトラブルに発展。なぜか同日深夜、その科の医局員2名が、学生らに糾弾するといった事件が起こり、「たたかう学生」の下級生から報せをうけた山田氏はその「糾弾」に加わっているというのだ。

 これは確かに大事件ですが、Fが話してくれたのは「いま、病院の中で糾弾をしている」というところまででした。「それはたいへん、すぐかけつけねば」とぼくは判断して、深夜ではありましたが、取るものもとりあえず病院へ向かったのです。逝ってみると数十人の”闘う学生”や”闘う青医連医師”がふたりの医局員を取り囲むようにしてガンガン行っているところでした。学生の中には医学部一年生の顔がめだちました。この年入学してきた一年生には剛の者が多いとかねてから評判でしたが、彼らは糾弾の再戦法になっていました。ぼくなどは彼らより四年も年上でしたが、頼もしい後輩たちを尊敬してみていたものです(後にこのとき糾弾していたメンバーのうち一七人が処分されました、そのなかに一年生がたくさんいました)。
 ぼくも糾弾に加わりましたが、遅れて参加したため最後列でギャアギャアいってるだけでした。
 そして夜明けになり医局員ふたりが謝罪文を書くことでいちおうの決着がつきぼくたちは引き上げました。意気揚々とひきあげたのですが、この後大学側はたいへんだったようです。

『闘う小児科医-ワハハ先生の青春 山田真 ジャパンマシニスト社 2005』

この後の学生大量処分と、その際に誤認処分があったことが、時計台占拠と安田講堂の攻防戦に繋がっていく。

団体交渉マインドと糾弾会マインドと

とりあえず、嬉々として「糾弾会」やってる様子。
数十人の学生が、若手医師2名を囲んで罵声をあげ…いや、いくら「当局」が断交拒否に出たからといっても、ちょっと常軌を逸している。

糾弾による犠牲者が出なくて何よりであったが、とりまこの時代には「糾弾会」スタイルの「運動」は、闘う学生達に違和感のないものであったようだ。

同和問題での運動のスタイルとしてこの糾弾方式が一般に知られるようになるのは「矢田事件(1969)」を待たねばならないし、初期全学連運動では闘争手段として、スト、デモ、プラカード、集会等はあるものの、大勢で少数を取り囲んでの吊し上げ糾弾スタイルの形跡は、いまのところ発見できていない。

自己批判を求めるスタイルは、左派の組織内部の議論スタイルとしては定番であったが(ソ連でもあるし)、それを組織外の個人に向けて、吊し上げ糾弾という形で行うことが「運動」が正当化されるのは、いつ頃、誰が始めただろう?

1957年の勤評闘争で、連日の糾弾の果てに三重県四日市市教育長自殺事件は、全国紙でも報道されたようだが、学生運動との直接の影響は少ないようにも思う。

この点については、さらに調べを進めていきたい。

1960年台末の”闘う学生”が育ってきた時代

戦後民主主義初期に初等教育をうけ、糾弾スタイルの反権力生活指導が確立する時期に中等教育を受けているのが「闘う学生達」である。

彼らが大学に入る前、初等中等教育を受けていた時代というと「日教組」の運動の闘争色が強かった時代でもある。

山田氏の故郷である岐阜は、勤評闘争は派手ではなかったものの、教組教研運動での進歩思想の浸透が強かった地域に属する(このため、専従休暇闘争は逆に派手になっている)。

左翼思想的には、東大や京大など、戦前からある超有名大学に進学するような学業優秀生徒ほど「旧時代的権威主義」と批判されやすいがために、「権力否定」や「進歩主義」に流れやすかったかもしれない。

「既存権威を否定する進歩的学徒」であることと「職業技術教育の徒」であることの矛盾を「見知った過激な運動」でのりこえようとしたのが彼ら”闘う学生”だったのではないだろうか。

 

運動家の原動力はシンプルだった

山田氏の「学生運動」後の話を読むと、運動家のありようといったものが透けて見える気がする。

氏は、八王子の診療所(どうやら組合系のものらしい)で医師としての仕事をしながら、その後も様々な「運動」に関わり続ける。

水俣病関連の座り込みに参加し、三里塚闘争の応援に行き、森永ヒ素ミルク事件の闘争に関わり、森永ヒ素ミルク後遺症患者のスタンスを批判する脳性麻痺者の運動に触れて衝撃をうけたそうだ。

その後、お子さんが障害をもっていたことで、障害児教育方面や障害者福祉方面にも関わり始めたようだ。

氏のスタンスは「民衆に寄りそう」ではあるが、なにか「闘争していないと落ち着かない」といった感じも見受けられる。

以下は『闘う小児科医 ワハハ先生の青春』の末尾である。

 ぼくも老境にはいりました。がんばりがきかなくなっています。でも、つい最近も東京都教育委員会を相手に障害児の普通高校入学のための交渉をしてきました。団体交渉というと、昔、大学で教授会に対して交渉した気分がよみがえり、元気になり、気持ちが若返ります。まだ闘えているのだと思うとどこか安心できるのです。
 そしてぼくはいま、能力主義教育を露骨に進めようとしている教育改革にい対して、できるだけ闘っていこうと思っています。

なにやら、「対能力主義教育」という新たな対立軸を見つけられた模様。

 

山田氏の設定する対立軸は、時期によってその主とするところは変化している。

①「患者の利益を損なう悪の医局講座制を告発しそれ抗う医学生」vs「権威的でダメな大学」

②「患者の利益に反するダメな医療を告発する医師」vs「権威的でダメな医学界」

③「障害児の利益に反する能力主義教育を告発する小児科医」vs「能力主義でダメ戦後教育」

一貫しているのは、常に「告発側」にいることである。

『弱者のために権力を告発し要求の声をあげることが正しい』といった信念をおもちのようである。

(これはもろに、日教組的な生活指導ロジックであり、日教組運動を支えた東大教育学という権威の中でぬくぬくと育っていたものであるという…ああ、なんたる矛盾)

とにかく、どうやら「権力者にあらざること=市民であること」が氏の運動を支えているようである。

告発される…は想定されていなそうであると同時に「シンプル」であるがゆえになかなかに闘争力が高い。

こうなると、東大紛争の残り火が、その後の「寄り添い型支援」のゴリ押しに変化していった可能性は否定できないように思えてならないし、その根っこを辿ると「教育」の問題に行き着くようにも思う。

東大病院精神科であった「赤レンガ闘争」からの考察はこちら

https://note.com/maminyan/n/n01d7f074325d 
 

ちょっと余談

山田氏の周辺について

学生運動より。ちょっと後の話になるが、山田氏のいたクリニックが、日教組との繋がりがつよかったということがついでに判明。

で、この本の出版元で、山田真氏が編集主幹?やってる、ジャパンマシニスト社…

おや、編集協力人一覧に「当事者研究」の熊谷晋一郎氏が並んでるではないかw。

どうりで「当事者研究本」に「教育ぬるぬる話法」が出てくるわけだわ。うん、納得。私の高感度日教組センサーが反応するわけだわ、うはははは。



山田真氏は、3.11後は「子どもたちを放射能から守る」のネットワークをつくる

なかなかどうして、老境に入ったと自認されて以降も山田氏はアクティブである。

特に3.11後の福島第一原発の事故後、放射能問題について積極的に活動を開始、「子どもたちを放射能から守る全国小児科ネットワーク」を作ったという。

この講演を主催したのは杉並の教育を考えるみんなの会憲法ひろば・杉並

東大大学院総合文化研究科「人間の安全保障」プログラムのセミナーでも登壇されている。


なかなか行動力のある方で、市民放射能測定所も作られた模様。
その中でなかなか興味深いメッセージを発信されている。

福島第一原発の事故によって、わたしたちは放射能で汚染された環境の中で生きることを強いられました。特に放射能の被害を受けやすい子どもたちを、わたしたちは守らなければなりません。内部被曝をふせぐ為に、自分たちの手で安全な食べ物を確保しようと、放射能測定所を開くことにしました。原発のない日本を一日も早く実現させるために力を尽しながら。
山田真(やまだまこと) 小児科医

にしとうきょう市民放射能測定所あるびれおWebサイトより

「強いられた」というのが、山田氏の根底にある感覚であるような気がする。「外部の権力者によって弱者が困難を強いられる」という構図であり、だからこそ自分が権力者であるということは徹底的に否定するのではないだろうか。

山田氏の中では「原発事故」と水俣病問題は同一の枠にはいっているようだ。

「権力によって切り捨てられようとする存在」を掘り起こすことで「反権力闘争」を継続しているのだろうか?

なお、山田氏は、国際環境NGO、FoEジャパンともしばしば協働しておられるようだ。そう、ALPS処理水の海洋放出反対をしていたあの団体である。

https://www.foejapan.org/energy/evt/130307.html




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