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神々の嫉妬、無責任な母性 (1)

第一章

(1) 

 昼下がりの歩道橋、あなたのさびしい背中を見た時から、私はとめどなく溢れてくる母性を抑える事が出来なくなった。それはあなたがあまりにも可哀そうなんて事ではなく、もっとこう、私があなたを守ってあげなくちゃいけないという責任感にも似た、不思議な感情だった。

 あなたはボロボロにすり切れたジーンズをはいて、突き刺さるような十二月の空気の中、素足にサンダルという気の毒な格好をして、目は虚ろで髭は伸び放題、髪も伸び放題、脂ぎっていて、ああ、こんな人間にも母親が存在して、温かく守られていた事もあったのかもしれないと思うと、十五歳になる我が息子の事を考えてしまって、それだけじゃ足りなくなって、あなたを呼び止めてしまった。

「ねえ、あなた、寒くないの?どうしたの、そんな恰好で?」

 あなたはただこっちを向いて、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして、私を眺めていた。もうずいぶん長い間誰とも喋ることがなかったあなたは、何と答えていいのかもわからず、私はこのままあなたを失ってしまうのがとても怖くなって、ずいぶん無理をしてしゃべり続けた。

「いつからこうしているの?ねえ、家族とか、友達とか、頼れる人はいないの?」

「いえ、大丈夫です」

「大丈夫に見えないよ。うち、来る?私結婚しているけど、一部屋空いてるし、好きなだけいていいよ」

「いえ、本当に、大丈夫なんで」

「じゃあ、しゃべって、あなたの事」

「何なんですか?」

 心臓が凍り付いた。そうだよね、私はただの物好きなおかしい人間に見えたよね?狂った、宗教の勧誘だとか、新手の誘拐犯だとか思われても仕方ないよね?でもね、そんな事は少しもなかったんだよ。ただ、あなたを守りたかっただけ。独りよがりで、ふざけているよね。あなたがどう思うなんて全然考えていなかったし、私はてっきりあなたが喜んでくれると思っていたんだから、馬鹿だよね。でもね、あなたがこれきり消えていなくなってしまいそうで、あの日の私はとても強引だったよね?

「いいから、おいで。私のうちに行こう」

「いやです。困ります。なんなんですか?」

「お母さんは?」

「うちの母とあなたと何の関係があるんですか?」

「ないけど、ないんだけど、ねえ、私も一応母親だから、だから、なんだろう、あなたが寂しそうで、もし私の子供が成人してこんな風に寂しくしてたらって思っちゃって、ごめんなさい。ひどいよね。私、独りよがりで」

「母は、いません。小さい頃に捨てられました。だから、いいんです、母親には何も望んでいませんから」

「じゃあ、どうして路上で生活しているの?」

「仕方ないからです」

「いつからこうしているの?」

「あまりよく覚えていません。仕事もできないし、人間関係もうまく築けないし、一人でいるほうがよっぽど気が楽です」

「食べ物とかは?大丈夫なの?」

「あまり食べなくても平気なので」

「ねえ、そこのファミレスに入ろう?ね、いいでしょ、そこだったら」

「いえ、いいです、匂うし」

「あ、そうか、ごめん。じゃあやっぱり家来て、お風呂入っていけばいいよ」

 あなたはそうでもしないと絶対来ないと分かっていたから、私は強引にあなたの手を引いて、歩いて十分ほどの所にある私の住むアパートに連れて帰った。あなたは渋々付いてきて、ようやくお風呂に入ってくれた。

「着替え、旦那のだけど、古いから気にしなくていいよ、置いとくよ」

 あなたは何も答えずに、ずっと長いこと体を洗っていた。私は、思い出したように、脱衣所の棚からシェーバーを取り出して、あ、ハサミもあったほうがいいのかななんて考えて、洗面所のシンクの上に並べておいた。

「髭剃り、シンクの所に置いてるから何でも使ってね」

 一時間程はお風呂場と洗面所に閉じこもっていたと思う。ドアを開けて出てきたあなたは思ったよりも若くて、髪は長かったけれど、髭をきちんと剃って、いい匂いがした。

「なんか、見違えたね。いくつなの?」

「二十六です」

「若いんだぁ」

 自分の年を言うのが、あんなに怖かったのはあの時が初めてだった。女はいつまで経っても若くありたいと思うし、若く思われたい。でもね、あなたに望んでいたのはそういう関係じゃなくて、ただ一方的にあなたを守ってあげたかっただけ。あなたのお母さんになりたかった。

「ねえ、驚かないでよ?私三十八。あなたと十二も違うの。おばさんだよね?」

「そうなんですか。お風呂、ありがとうございました。じゃあ、僕はこれで」

「え?ご飯作ったよ、食べて行ってよ。はい、つまらないものですが」

 あなたはしぶしぶダイニングチェアーに座り、私の作った料理に手をつけた。思ったほど感動的なリアクションはなくて、ただ黙々と、出された料理を制覇していくような感じだった。だけど、それだけで私は嬉しかった。

「ねえ、名前まだ聞いてなかったよね?私はサユリ。君は?」

「クレハです」

「へぇ、変わった名前だね」

「父親が付けました」

 そして、あなたはとめどなく泣き始めた。はじめ、あなたの目から涙の粒が静かにこぼれたと思ったら、あなたは嗚咽を漏らし、しゃくりあげ、どうなったのかわからないくらい静かに、滝のように流れ出す涙に、ただ茫然と心を奪われて、私の目からもゆっくりと涙のしずくがあふれた。

 そして私はあなたを守るように、抱きしめた。母親のような愛情一心で抱きしめた。

「お父さん、好きだったんだね」

 あなたは何も言わず、安心したのか、そのまま眠ってしまった。その無防備な寝顔を覗いていると私も安心してきて、中学生の息子が帰宅するまでの間、普段は使うことのない唯一の畳の部屋になっている仏間を少し掃除した。仏間といっても、仏壇は置いていないし、家族や友達が泊りに来た時に使う部屋だった。押し入れから敷布団を一組出して、床に敷いた。そして、旦那のお古の洋服をいくつか出してきて、桐のタンスに詰め込んだ。彼の着ていたボロボロのジーンズとトレーナーを洗濯機に放り込むと、風呂掃除をして、洗い物を済ました。

 トイレに行って、リビングに戻るとあなたの姿がなかった。あなたはまた素足にサンダルで、さっきよりも薄着で寒空の下消えてしまった。私はやっぱり、あなたを癒してあげることも、守ってあげることも、何もできないんだと思った。ただ出来ることといったら、リビングの床に座り込み、何もない空間をぼーっと眺めることくらい。

 そしてユウタロウが学校から元気に戻ってきた。

「ただいまー!はらへったー!」

 ムードぶち壊しの天才だなあ、ユウタロウと結婚する人はかわいそうだなあ。

「おかえり。ごはんできてるよ。学校どうだった?」

「おおー、ハンバーグじゃん、うまそう!いただきまーす!」

「ちょっと!手洗ったの?」

「そんなの大丈夫だよ、死なない、死なない」

 ユウタロウは反抗期とは全く無縁なのか、いつまでたっても友達のように私に接してくれていた。親失格なのかもしれないな、私は。そう思うことがよくあった。私がユウタロウを守っているというより、ユウタロウが私を守っている、もしくは手なずけているといった方がしっくりくる感じだった。

 旦那は一年の半分以上を海外で過ごし、残りの半分は日本各地を転々としているので、いないひと、だった。もうそういう生活になって十年ほどになる。最近では、日本にいつ帰ってきたのかさえも知らなかった、なんて事があって、まともに顔を思い浮かべる事も出来なくなった。

 結婚なんて、ただの紙切れ。

「食べ終わったら、宿題早くしてお風呂にはいりなさいよ」

「分かってるよ、あれ、なんでこの部屋布団が敷いてあるの?」

「ああ、今日ね、ホームレスの人を連れてきたんだけど、逃げられちゃって」

「はあ?母ちゃん何してるんだよ?ホームレスって男?女?」

「男の人だったわ」

「あぶねーよ、母ちゃん。家帰ってきたら殺されてた、なんて嫌だよ」

「何?心配してくれるの?あんたもそんな気が使えるお年頃になったの?」

 ユウタロウはまじめにまっすぐ私を見て、答えた。

「なあ、母ちゃん、そんな知らない人連れ込むの、やめてよ」

「うん、わかった」

 そう言ったくせに、心の片隅では、再びあの寂しそうなあなたのことを考え出していて、気の毒なあなたがまた暗く、肌を刺すような冷たさの中で、何かにおびえながら、朝を待っているのかと思うと、居ても立ってもいられない焦りのような、不安のような感じを覚えた。

 クレハって、どんな漢字なんだろう?お父さんは優しい人だったのだろうか?あなたは、あんなに泣いたくせに、なぜ逃げてしまったのだろう?ああ、あの人を抱きしめて、温めてあげたい。

 あの人の母親は、なぜわが子を捨てたのだろう?私はユウタロウを捨てるなんて事は、たとえ殺されたとしてもできないと思う。三十二時間も苦しんでようやく生まれた子供だった。なかなか強い陣痛が来なくて、陣痛促進剤を点滴したのだけれど、痛いだけで、なかなかいきむことができなかった。そうしてようやく生まれてきたときは、半分疲れきっていて、死にそうで、お腹がすいて、あなたを抱っこした。ユウタロウは小さくて、細くて、エイリアンとかサルみたいで、あまりかわいいとは言えなかった。だけど不思議なことに、ずっと抱っこして、授乳をしていくうちに、愛情が芽生えたのだった。

 あれ、これって、もしも自分の子供じゃなくて、生まれたばかりの見ず知らずの赤ちゃんだったとしても、自分が育てていけば、愛情って目覚めるんじゃないの?たとえ血の繋がりがなかったとしても、私はきっとどんな赤ん坊でも自分の子供として扱うことができるんじゃないかしら?なんて変なことを考えたものだ。

 それほどに、母性の目覚めというものは不思議な瞬間だった。


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