「生い立ちの授業」「二分の一成人式」「組み体操」の問題の本質-子どもを見るということ
「生い立ちの授業」、「二分の一成人式」、「組み体操」は、学校教育の中でも批判の的になっています。ただ、私は、これはそれほど問題とは思っていません。本当の問題は別にあります。この活動の形ばかりを批判するのは、かえって問題の本質から目を逸らすのではないかと懸念もしてます。
その問題とは、
子ども見ていないということ
です。
言い換えれば、
やってはいけない子どもにやらせていること
とも言えます。
例えば、「組み体操」のタワーは危険だと批判されます。ところが、チアリーディングの大会などを見ていると、さらに危険な技がされていて、誰も批判しません。
運動会はダメで、チアリーディングがOKなのはなぜでしょうか。
そこに問題の本質があります。
チアリーディングの競技者は、それに向けてしっかりトレーニングをしています。そしてできるようになって大会に臨みます。トレーニングには、体を鍛えて筋力もつけていることもあるでしょう。
ところが、学校の運動会での組み体操では、トレーニングの時間もとれませんし、そもそも普段からスポーツをしていない生徒もいるでしょう。そうしてできない生徒に無理をさせて事故が起きています。組み体操が危険だから事故が起きているわけではありません。
言葉を換えると、運転できない人に車を運転させているようなものです。だから当然事故は起きます。それは車が悪いわけではありません。
ですから、例えば体育系の高校で、普段から鍛えている生徒に、その生徒の能力に合わせてやるのならばどうでしょうか。そうなれば大丈夫ではないでしょうか。
「生い立ちの授業」や「二分の一成人式」も、例えば少人数のクラスで、教師が家庭環境などを把握して、やっても大丈夫だと考えられる場合は、どうでしょうか。それも禁止すべきでしょうか。
そして、私が懸念するのは、「生い立ちの授業」「二分の一成人式」「組み体操」を形式的に禁止して、子どもを見ないままに、その代わりに問題ある教育活動が取り組まれるのではないか、ということです。
「車は危険だ、じゃあオートバイで」となってしまうようなことです。
過去記事、「教師も哲学をもとう」 でも述べましたが、教師が子どもをよく見て、問題なく「生い立ちの授業」「二分の一成人式」「組み体操」ができるようになるほうが、よいのではないでしょうか。
「この子達は自動車やバイクではなくて、自転車がふさわしい」と、子どもを見て判断できるようになってほしいのです。
とはいえ、多くの教師にその力量を期待することは難しいとも思います。だから禁止すること自体は、やむを得ないとも思います。
ただ、形だけ禁止するのではなくて、その本質の部分、「子どもをよく見ること」を常に考えてもらいたいと思ってます。
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