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ファシリテーションって何だろう

この1週間で4校の小学校にうかがい、クリケットとマイクロビットを使ったプログラムで動くおもちゃづくりワークショップを実施しました。久しぶりに集中して、子どもたちと接する機会を得て、あらためて「ファシリテーションって何だろう」と考えるきっかけをいただきました。

子ども向けのワークショップをはじめたばかりの頃、ワークショップの度に同僚と一緒に、ワークショップでの場面を振り返りながら、あの時はあの子には、こうファシリテーションすべきだった、そもそもファシリテータとはこうあるべきでなどなど、話し合っていました。この時の経験が自分にとって子どもとの接し方を考える礎になっています。同時に、少し違和感を覚えたのは、人によってファシリテータ観に微妙な違いがあることでした。本当に子どもたちのとってよいファシリテータとしての接し方は何だろう、ワークショップのデザインはどうなんだろう、と考えたのが大学院で学び直したいと思ったきっかけの一つでした。

周りの支援もあり、念願かなって大阪大学人間科学研究科の教育工学研究室に、社会人大学院生として入学することができました。学部生時代は、お恥ずかしい限りですがほとんど大学に行っていなかった自分が偉そうなことを言うのもなんですが、大学院での授業やゼミ通じて、大学って面白いとはじめて思いました。指導教員の前迫孝憲先生のテクノロジ、メディア、教育の本質を見極める俯瞰的な視点の持ち方や、菅井勝雄先生が授業やゼミでお話になる教育学習論は、子どものワークショップを考える支えになりました。特に菅井先生がおっしゃっていた「教育方法に万能薬はない」という言葉(東洋先生の言葉だとおっしゃっていたように記憶してます)が心に残っています。

いわゆる学校での講義型、知識伝達型の授業とは対極にある、手を動かしながら自分であるいは仲間と一緒に、活動を通じて学ぶワークショップを、ついつい万能な学びの方法と思いがちだった自分にとって、ワークショップも一つの教育方法だということを考えるきかっけになりました。教育学習論の視点からも、教育方法の一つとしても、位置づけられるワークショップで、私たちはどう子どもたちに接したらよいか(ファシリテーションするのがよいか)、2000年代の半ば以降、ワークショップやファシリテータという言葉が一般にも使われるようになり、教えるのではなく、子どもたちの活動を支援する人という考え方で落ち着いている気がします。そして、そのように広い意味でファシリテータを捉えると、冒頭のファシリテータ観の違いによる違和感はなくなりました。

とは言え、ワークショップの度にどう子どもたちに接するのがよいか、ワークショップのなかでは考えてしまいます。同志社女子大学の上田信行先生に声をかけていただいた「ワークショップに失敗はないから大丈夫。その時その場にいる人でワークショップはできるので、あとにも先にも二度と同じワークショップはできないのだから、失敗のしようがないんです。」という言葉も、私にとってワークショップを考える支えになっています。しかしながら、さらにファシリテータをどう考えるか複雑になっていきます。万能ではなく、しかも開催毎に変わってしまう教育方法としてのワークショップのなかで、どうファシリテータとして子どもたちに接するのか、答えが出ないままです。

ファシリテータとしての自分も、経験や年齢、その時のコンディションで変わりますし、参加する子どもたちも変わります。その時の自分が自然体で子どもに接すること(ファシリテーションすること)が一番ではないかと、まわりまわって今思っています。「ファシリテーションって何だろう」の答えは、今のところ私にとっては「ファシリテーションって何だろう」とその場その場で考え続けることかもしれません。

そして、たぶんまた変わっていくんだと思います。

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