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「ほうれん草を育てながら哲学してみた」第14話(最終話)〜なぜ「雑草」はあるのに「雑星」はないのか〜

ついにほうれん草を収穫した。

種を蒔いてから3カ月近くかかった。いやー、おつかれさまでした。

普通はだいたい40〜50日ぐらいで収穫できるそうなのだが、屋内で窓が東西にしかないという悪条件のせいか、こんなに長い時間がかかってしまった。いや、もう少し早く収穫しようと思えばできたのだけれど。

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でも時間と手間がかかったぶん、感慨深いものがある。

屋外の日当りのいい場所で育てられれば、それほど手をかける必要もなかっただろう。しかしウチは窓が東西の2カ所。朝起きたらせっせとプランターを東側の窓際に運び、午後になったらまたせっせと西側の等際に運び、夜になったら照明の当たらない場所に運ぶ。

いやあ、これが面倒くさいのなんの。しかもプランター3つですよ。途中でうんざりして、1つは実験的にそのまま放置することにした(笑)。

ときどきサボったり、忘れてたり、家を空けてたりで世話できない日もあったが、それでもほうれん草たちは文句も言わず(僕が聞こえてないだけかもしれないが)、無事に収穫できるまでに育ってくれた。ありがたいことである。

記念すべき最初の収穫は、ランチのパスタに生のまま放り込んだ。

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まずはほうれん草だけを口に入れてみる。

……スッキリした味わい。雑味がなくて、ものすごく食べやすい。以前友人に、自然栽培で育てたニンジンを食べさせてもらったことがあるが、その時の感覚に少し似ていた。

ちょっとおかしな表現かもしれないが、「美味しい」というより、「変な味がしない」。そして何より、体が喜んでいるというか、元気がみなぎる気がした。でもこれは多分に「自分で作った苦労が報われて欲しいバイアス」がかかった結果だと思う。

続いて夕食ではおひたしにしてみた。けっこうたくさんあるように見えたほうれん草も、茹でたらこれっぽっちになっちまったよ……。

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文字通り「西へ東へ」「東奔西走」した日々が脳裏を駆け巡る。

「やっぱりほうれん草は八百屋さんで買うに限るな!」という悟りの境地に至ったのであった。とはいえ、自分で育てた野菜を食べる喜びは、やっぱり他には替え難い。

それに無農薬で固定種の野菜は、八百屋ではなかなか手に入らないだろう。そして自分で育ててこそ、ふだん八百屋で野菜が買えるありがたみもわかるというものである。

さて、ほうれん草栽培の後半で一番驚いたことは、「トウ立ち」である。

要するに花を咲かせようとすることだが、こうなると食用としてはダメになる。花を咲かせ種をつくるために、栄養素が葉からそちらへ移ってしまうそうだ。

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ほうれん草が花を咲かせるのは春。しかし、日が暮れてからも明るかったり、あったかい場所にずっと置いていたりすると、ほうれん草が「お、春かな?」と思ってトウ立ちしてしまうようなのだ。

ウチの場合、東西の窓の両方とも、屋外から街灯の明かりが入ってくる。だから窓際に放置していくわけにもいかず、夜になったら照明の当たらない場所に避難させなければならない。これがまた面倒なのだ。

当然うっかり忘れる日もあるわけで、そのせいかほうれん草のいくつかはトウ立ちすることと相成ったわけである。うーん、やむなし。11月は特にあったかかったので、その影響もあるかもしれないが、実際のところはよくわからない。

いずれにせよ、都市の中で、しかも屋内で、自然と同じ環境を維持することは至難の業だ。だがそれをある程度維持しなければ、ほうれん草の育つメカニズムが誤作動を起こして(むしろ正しく作動した結果とも言えるが)、本来の自然の中とは異なる育ち方をしてしまうことになる。まだ春になっていないのに花を咲かそうとしたりもする。

とすると、人間にも同じようなことが起こっているに違いない。

ほうれん草の季節外れのトウ立ちを目の当たりにして、「これが人間にも起こっているのか……」と考えると少しゾッとする。日が暮れてからもずっと照明の中で活動していたら、何かしら調子が狂うのは当然のことだろう。

日本で一般家庭に照明が普及して、まだ150年くらいじゃないだろうか。人間の身体のシステムは基本的に縄文時代の生活に適応するようにできているそうなので、都市での生活は身体に不調をもたらさずにはおかないはずだ。

「いや、俺は超健康っすよ」という人もいるだろうが、縄文人からすれば「え、その体調で“健康”って言ってんの?めちゃくちゃ勘は鈍ってるし、見えても聞こえてもないやん。それで狩りに出たら瞬殺されまっせ(笑)」という話かもしれない。

もちろん縄文人のことなど全然わからないが、一番違うのは「元気」じゃないか、という気がする。

たぶんだが、縄文人が現代の都会人を見たら、みんな「元気がない」ように見えるのではないか。もちろんそれは自然に沿わない生活環境だけでなく、社会構造の違いもあるはずだけれども、なにより人間が「個人」を中心に生きるようになったことが大きいように思う。

さっきの「トウ立ち」の話に戻るけれども、ほうれん草は春になれば花を咲かせて種を作り、その過程で自らの栄養素を次の世代へとバトンタッチするわけである。それは人間で言えば子どもを産み育てることに似ているかもしれないけれど、その人間の生命は、ほうれん草などの植物や動物などを食べることによって維持されている。そこにも栄養素のバトンタッチがあるわけで、その意味で僕らは「ほうれん草の子ども」でもある。

その人は、その人が食べたものによってできている。

この当たり前のことを、僕たちはつい忘れてしまう。だから「元気がない」のかもしれない。そのことを本当の意味で知っていれば、世界は自分にとって決して疎遠なものにはならないだろう。世界と疎遠でなければ、人はきっと元気でいられるのではないか。

ここでの世界とは自然のことでもあるし、もっと言えば宇宙だけれども、そういう「世界」との結び合いを解消してきたのが近代の歴史なのだと思う。

そこで失われてきた「元気」を取り戻すのに必要なのは、ロケットを作って宇宙に飛び出すこととは真逆の方向性だ。

自分が立っている大地にふれること。その大地のメカニズムは、宇宙と同じくらい神秘に満ちていると思う。すでに書いたように、循環農法を実践している赤峰勝人さんによれば、不要な「雑草」というものは本来存在せず、「そこに必要な草しか生えてこない」。

翻って、宇宙に「不要な天体」など存在するだろうか。

「雑草」があるのだから「雑星」があってもおかしくないはずだが、そんな言葉は聞いたことがない。それは、人間の傲慢な決めつけが、まだ宇宙にまでは及んでいないことを意味している。

だがやがて人間が宇宙にまで進出し、「必要な星」と「不要な星」とを分けて、「雑星」が誕生する日が来るのかもしれない。

その「雑星」を排除するならば、宇宙全体のバランスに影響して、奇跡的なバランスの上に成立している地球の環境を脅かすに違いない。

あらゆるものはつながっていて、そのつながり自体は目に見えないが、「目に見えないこと」は「存在しないこと」と同じではない。

僕らは神社やお寺や祠のようなものに、前近代的なイメージを抱くことがあるが、あれは一面において、「目に見えないもの、人間に理解できないものは存在するよ。そして本当はそれが世界の根本をつくっているんだよ」ということを忘れないための装置なのだと思う。それは極めて現実的で、ある意味では科学的な認識である。

ところが現代では、「それは科学的に証明されていないから存在しない」とか、「エビデンスがないから採用できない」などということが平気で言われるようになった。

もちろん科学で明らかになったことはたくさんあるけれども、「にもかかわらずわからないものが存在する」ということもまた、科学が明らかにしてきたことだろう。

それをさも「証明できないから、ない」とするのは、手段の目的化による倒錯である。その意味では、昔の人たちのほうがはるかに科学的な認識を持っていたのかもしれない。

それを便宜上「真の科学」と呼ぶならば、自然農法、有機農法、循環農法というのは、そうした「真の科学」を基盤に置いた農法なのだろう。それゆえに、まだまだわからないこともたくさんあるだろうし、たったひとつの正解があるわけでもない。でも、だから面白いし、やりがいもあるのだろう。

それらに比べれば、僕のプランター栽培はおままごとみたいなものだが、このプランターという小さな宇宙と、そこで育ったほうれん草は、僕にいろんなことを教えてくれたのだった。

(完)

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