見出し画像

「ほうれん草を育てながら哲学してみた」第7話〜雑草は土を豊かにするために生えてくる〜

農家さんからよく聞くのは、「土でほとんど決まる」「人間ができるのは、土を良くすることだけ」というような言葉だ。

うちのほうれん草は、大、中、小と3種類のプランターで育てていて、そのうち大のプランターだけ葉の色が薄い。これも、大プランターだけ違う土を使っているせいかもしれない。プランターの置き場所も、種の蒔き方も違ったので一概には言えないが、いずれにせよ、土の違いが作物に与える影響は大きい。そして、その土の豊かさによって、そこで育つ作物の種類も変わってくるという。

土を豊かにするということは、「その土に生きる微生物を活性化させる」ということだろう。その微生物がさまざまな有機物を分解し、作物の栄養に変えてくれる。その微生物の活性化のために、鍬や肥料を入れたりする。まあ、僕は初心者なので詳しくはわからないけれども。

「土を豊かにする」ということでいつも思い出すのは、無農薬、無化学肥料の「循環農法」で野菜を育てる百姓、赤峰勝人さんの言葉だ。

彼によれば、循環農法とは「自然の掟に従う農法」のことであり、「人間の人智が及ばない自然の真理や法則にしたがって、作物が育つ手伝いをする農法」であるという。そして彼の雑草に対する考え方に、僕はけっこうな衝撃を受けた。

農業をするにあたって、雑草は邪魔者だと考えるのが一般的だろう。しかし彼はその雑草を「神草」と呼ぶ。その雑草は、その土にとって必要だから生えてきている、というのである。たとえば、次のようにである。

「私は畑に生える草を「神草」と呼ばせてもらっています。土に足りないミネラルを補うために、そこに必要な草しか生えてこないのです。(中略)土ができてくるとやがてイネ科の草やスギナは姿を消し、今度はナズナやハコベがいっぱい出てきます。カルシウムたっぷりの豊かな土になった証拠です」

(赤峰勝人『ニンジンの奇跡』)

雑草は土を豊かにしてくれる。
そこに必要な草しか生えてこない。

この考え方は、前回書いた「困難」の考え方に通じるものがあると思う。生きていると、イヤでもさまざまな困難がやってくる。でもその困難を経験することによって、人間は深みや豊かさを獲得していく。それが結果的に幸福をもたらす。人生における困難とは、土における雑草と同じようなものかもしれない。

とすれば、赤峰さんが雑草に対して言ったのと同じように、人生では、「その人に必要な困難しかやってこない」のかもしれない。つまり、「自分が学ぶべき課題」が、常にその困難の中に含まれている、ということである。

確かに我が身を振り返ってみれば、この考え方は実に腑に落ちる。困難は、自分の至らない点を神様がピンポイントで指摘するかのようにやってくる、ような気がする。

時には、そんな学びなんてはるかに超越した、どうしようもなく巨大な困難に飲み込まれてしまうこともあるが、これはもう人智を超えた宿命としか言いようがない。

「器が大きい人」というのは、実はこの困難をたくさん受け入れることができる人のことなのかもしれない。

いろんな困難に直面しても、それを拒否するのではなく、「おお、そう来たか」「まあまあ、なんとかなるでしょう」と包み込んでしまう。そこからまた豊富な学びを得て、栄養にしてしまう。それが、人間の器の大きさというものなのかもしれない。

困難は、畑に生える雑草のように、とめどなくやってくる。でもそれを単に邪魔なものと捉えるのではなく、「ああ、こういう栄養を、いま自分(土)は欲しているのだな」と考えると、その受け止め方はずいぶん変わってくるような気がする。そうして土が豊かになれば、どんな種を蒔いても、豊かな実りを約束してくれるようになるだろう。

人間の心も、土と同じように豊かに耕すことができる。どんな種を蒔いても豊かに実らせる心。それは、いろんな雑草の力によって、さまざまな困難を分解して栄養にすることができる微生物を、心の中に育てることなのかもしれない。


いつも応援ありがとうございます。いただいたサポートは、書籍の購入費に充てさせていただきます!!