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世界は「偶数的なもの」と「奇数的なもの」でできている

「世界は数字でできている」

というピタゴラスの思想が正しいかどうかは置いといて、ある時、ふと、こんなことを思った。

「世の中のあらゆるものは、『偶数的なもの』と『奇数的なもの』に分けることができるのではないか?」

たとえば、こんな感じだ。

僕にとって、「8時だョ!全員集合」は偶数的だが、「オレたちひょうきん族」は奇数的である。

……なんとなく伝わるだろうか(笑)。

ものすごくわかりやすいところで言えば、三角形は奇数的で、四角形は偶数的である。これはまあ、当たり前な感じがする。

では、円環(マル)はどうだろう。僕には偶数的な感じがする。

ちなみに0(ゼロ)は「偶数」らしい。円環が偶数的に感じられるのは、そういうことと関係があるのかもしれない。

そして、女性が偶数的だとしたら、男性は奇数的である。

けれども、同じ男性の中にも「偶数的な男性」と「奇数的な男性」がいたりする。

ふくよかな体型の人は偶数的な感じがするし、痩せている人は奇数的に見える。おっとりした性格の人は偶数的な気がするし、キビキビした人はなんとなく奇数的なイメージだ。もちろん、完全なる偏見である(笑)。

いずれにせよ、この「偶数的なもの」と「奇数的なもの」のイメージの違いは、あくまで相対的なものなのだろう。

たとえば、「地球」は偶数的だろうか、それとも奇数的だろうか。

「月」との比較で言えば、月は奇数的で、地球は偶数的な感じがする。

でも「太陽」との比較で言えば、太陽のほうが偶数的で、地球のほうが奇数的な気もする。

これもまた、僕の主観である。人によっては全く逆のイメージを持つかもしれない。

そこで先日、ある飲み会でこの話をしてみた。すると思いがけず共感を得て、30分以上もこの話題で盛り上がった。みんなこういう「どうでもいい話」が大好きなのである(笑)。

「『偶数』と『奇数』のイメージの違いは、『グウスウ』と『キスウ』と言う時の『音』の違いに由来するのではないか?」

という意見もあった。確かにそうかもしれない。とすると、言語の違いによってイメージが異なる可能性もある。

そんな話をしている中でも、僕が特にうれしかったのは、

「“5”は奇数だけど、奇数の中ではかなり偶数寄り」

という謎のイメージに対して、「なんとなくわかる!!」という共感を得たことである(笑)。

そこで、「なぜ“5”は奇数の中でも偶数寄りなのか?」という議論になった。

僕の考えでは、それは「10の半分だから」である。

“10”は偶数の中でも特に偶数的で、円環的なイメージと重なる部分もある。そして「“5”が2つあると10になる」わけで、なんとなく“5”は“10”の衛星的な存在のような感じがする。だから“5”は奇数であるにもかかわらず、比較的「偶数的」なのだ。

「俺は一体何を言ってるんだろう」という気分になってきたが、とりあえず話を進めたい。

この「偶数」と「奇数」のイメージの違いは、一体どこから来るのか。

辞書を見ると、偶数の「偶」には、「二つならぶ/対/むかいあう/ともがら/なかま/つれあい」というような意味があるらしい。「配偶者」という言葉もあるように、なんとなく「セット」のような感じがある。

奇数の「奇」には、「めずらしい/すぐれている/ふしぎ/思いがけない」というような意味があるという。「奇跡」という言葉が象徴するように、単発的で「二つとない」といった感じだろうか。

なるほど。

「二つとない」ものを二つ並べたら、それは「奇」ではなくなる。だから、「奇数を二つ足すと、偶数になる」のかもしれない。「奇」が二つ並ぶという論理矛盾を回避するために、奇数が奇数でいられなくなるのではないか。

だが一方で、偶数の「偶」には「たまたま」という意味もある。これは「奇」が持つ「めずらしい/思いがけない」という意味と重なる気がする。その意味では「偶」と「奇」は同じである。

これはもしかすると、「『偶然』と『必然』が実は同じことである」というのと似たような構造なのではないか。

偶然も必然も、コインの裏表のようなもので、その事象を「どの視点から見るか」の違いでしかない。あなたがいまこの文章を読んでいるのは偶然である、とも言えるし、必然である、とも言える。

そのこともふまえて考えると、次のようなことかもしれない。

「たまたま二つ並んだ状態」が偶数。
「めずらしく並ばない状態」が奇数。

一方はたまたまで、一方はめずらしい。

じゃあ、どっちも希少な感じで、普通じゃないやないか!普通の状態はどうなってんねん!と言いたくなる。

偶数でも、奇数でもない、普通の状態。ニュートラルな状態。

それは一体どこにあるのか?

それが、「あの世」なのではないだろうか。

要するに、実は「あの世」の方がニュートラルな普通の状態で、「この世」のほうが「たまたま」で「めずらしい」状態なのではないか。

数字が「偶数」と「奇数」として存在しているのは、そんな「世界」のありようを示しているのではないか。

その意味で「世界は数字でできている」のだとしたら、「あの世は数字でできていない」に違いない。あえて数字を持ってくるのなら、そこに「虚数」の意味があるのかもしれない。

答えなんか出しようがないが、ピタゴラスが生きていたらぜひ聞いてみたい問いである。


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