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私の今までの研究人生④研究留学と他大学への転出:稲永清敏名誉教授(九州歯科大学)

 いよいよ稲永先生(名誉教授)はケンブリッジへの留学、そして九州歯科大学へと赴任します。院を修了して6年後に留学です。九州歯科大学に来られたのは1994年(43歳)でした。(小野堅太郎)

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6.ケンブリッジ留学

 1985年8月より1987年2月まで、1年7ヶ月英国にBritish Councilの奨学生となり留学する機会を得ました。最初の2ヶ月は、ケンブリッジ市内で英会話教室に通いました。というか、通わされました。British Councilの奨学金を得るために、1次が京都、2次が東京で英語試験とインタビューがあり、どういう訳か、私はこれにパスしたのですが、肝心の英語の出来が悪かったのでしょう、事前教育コースとして英語研修をホームステイをしながら受けることになったのです。ホームステイですから当然家族とは別居で、1日中、英語漬け。この間に、少しは英語が上達したかな。

 英語研修が終わり、日本から家族を呼び寄せ、ケンブリッジ市外のBabrahamという小さな村にあるAgricultural Food Research Council研究所の神経内分泌学部門でいよいよ研究生活が始まりました。Agricultural Food Research Council研究所は、日本風に言えば、農林水産省所属の畜産研究所というところでしょうか。現在は、所轄変更によりケンブリッジ大学附属生命科学研究所Babraham Instituteになっています。当時、私の所属していた部門は、神経内分泌学のメッカでした。関係する多くの研究者と知り合いになり、交友関係を結ぶことができました。

 研究所の朝は早く、8時にほとんど一斉に仕事が始まりました。しかし、11時からティータイムとして約30分、13時から14時は昼食、16時30分頃には、仕事終了です。17時頃からは、研究者もほとんど自分の部屋に居ず、帰宅するか、研究所内にあるパブで一杯という具合でした。金曜日の午後となると、昼食を研究所外のパブに行って摂るものだから、ほとんど仕事にならず、です。こんな状態にも拘らず、皆、結構一流のジャーナルに論文を出していましたので、仕事をするときは集中してやっているんだ、という印象を強く持ちました。母国語で論文を書くという強みが最大の武器でしょうが、研究や研究補助の仕事分担が明確であったことも、研究効率を上げていたのかとも思います。私の上司であるW.T. Mason博士は、私より一つ年下の米国人。非常に気前がよく、羽振りが良かったので、彼のグループにいた私は、特に「花金」を楽しむことができました。

 私の留学の目的は、1991年ノーベル賞受賞のNeherとSakmannが開発したパッチクランプ法を修得することでした。私が留学した頃は、この方法の黎明期でした。私は、単離した下垂体前葉細胞と視床下部ニューロンからホールセルクランプと単一チャネル解析を行い、論文にまとめることができました(Inenaga & Mason, 1987; 1987; Mason et al., 1988; Bicknell et al., 1989 [21,24,26,28])。この技術は、後でのインビトロ実験に大いに役に立ったというのは言うまでもありません。また、九州歯科大学に異動してからは、研究の対象が神経内分泌学から移りましたが、後の研究生活で大事な財産となったのは、この時に培った交友関係でした。

7.実験室のクーラーの確保から始まった歯科大での研究生活

 九州歯科大学に教授として赴任した当時、真鶴校舎には、国道三号線に面した病院棟、その裏に本館・図書館・講堂・別館・動物実験施設があり、生理学教室は別館4階でした。歯科大では、喉の渇き・飲水行動を調べたいとは考えていましたが、まず、実験の継承をすることが先決だと考え、スライス実験のためのセットアップを始めました。幸い、実習室と実習準備室に研究スペースがありましたが、空調設備が整っていませんでした。実習準備室は20畳ほどの広さでしたから、市販のエアコンで間に合いました。しかし、実習室は広く、部屋の広さに見合ったエアコンを購入するとなると200万円から300万円するという話でした。そのようなお金の余裕はなかったので大学事務局に相談すると、県立戸畑高等専門学校が近々建て替えをする予定で、スペース分をカバーするエアコンがありますよ、という情報が入りました。早速、専門学校に出向き、エアコンを譲り受けました。移設費として50万円程掛かりましたが、そのエアコンは2007年に新築された本館に移動するまで、故障することなく稼動してくれました。快適に、実験や実習を行うことができました。これは、大いに助かりました。

 肝心のセットアップはどうかというと、ほとんど身ひとつで赴任してきたので、実験道具はプロトタイプのスライサーだけで、その他は何ももっていませんでした。幸いに、それまで別のインビトロの実験をされていた本田先生からアンプや実体顕微鏡をお借りできたこと、なによりもうれしかったのは、全面的な研究の協力を申し出ていただいたことでした。また、山下先生より資金援助、私の科研費などにより実験器具を揃え、ようやく実験ができるようになりました。しかし、今、わたしの業績を振り返って見てみますと、歯科大で行ったスライス実験で論文(Inenaga et al., 1998 [52])が出たのが1998年ですから、赴任から4年の歳月が経っています。長い間掛かったなあという気がしますが、皆さんの援助がなければ出来ないことばかりでした。
丁度、スライスパッチのセットが出来上がった頃、突然中国からスライスパッチを習いたいとの手紙が届きました。安徽(アンフイ)省安徽中医学院神経病学研究所の研究員の許聖弘先生からでした。運よく、学振より10ヶ月の外国人長期招聘研究員として彼を招聘することができました。招聘の条件が良かったからでしょうか、滞在期間中、彼は、朝は早くから夜は遅くまでよく研究をしてくれました。後に、彼はその成果が認められ博士(歯学)の学位を取得することになるのですが、短期間の滞在にも関らず、4編の論文を発表できるまでの成果を出してくれました(Xu et al., 2000; 2001; 2002; Honda et al., 2001)。もちろん、10ヶ月の滞在ですから、総てのデータが揃っていたという訳ではないので、データの不足分を本田先生に追加実験していただくということもありました。

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 次回は、九州歯科大学での研究室配属の立ち上げ、そして新たに始めた唾液腺研究についてです。


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