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おとなになる、ということ。

気がついたら、10代最後の夏休みになっていた。
私はあと2ヶ月でハタチになる。
一年ぶりに日本に戻ってきて、「大人になったね」と声をかけられることもある。
大人になることは、折り合いをつけることを学ぶことなのかもしれない。
そう、私はハタチになる前に「折り合い」をつけておきたかった。

私はずっと、大人になりたくなかった


私は小さい時からずっと、大人になりたくなかった。
それはきっと、「星の王子様」が大好きだったからだと思う。

大人になったら、ウワバミをのみこんだゾウの絵が、帽子にしか見えなくなって、王子様にとって大切なことをないがしろにしてしまう操縦士みたいになるなんて、なんてつまらないことだろうと思っていた。

大人になんかなりたくない、と強く思っていただけに、自分の年齢の数が否応無しに増えていく中で「大人になるとはどんなことか」真剣に考えるようになったように思う。

小さい頃から、いろんな大人を見てきた。スーツを着て、満員電車に詰め込まれる大人、お金や名誉のことばっかり考えている大人、思ってもいないことを口ではいう大人、地位があるからと偉そうにする大人。幼い私には、人の目の奥にあるものがよく見通せたから、そんな大人たちにはぜったいになりたくない、と思っていた。
でも、かっこいい大人にもたくさん出会った。目の前の人や自然を大切にできる大人、どんな状況でも信念を曲げずに強く生き抜いてきた大人。

19年と10ヶ月、いろんな大人に出会ってきたなぁと振り返りながら、自分がなりたくなかった「おとな」の輪郭が見えてきた。

それは一口に言えば、今ある社会制度の一部になり、歯車として吸い込まれてしまった人のことだった。

効率性や、社会でよしとされる価値観がそのまま自分自身の価値観になってしまうこと。周りと同じであることに安心し、それに対して疑問を持たなくなること。この社会でなんとか生き延びるために働き、忙しさに我を忘れること。

世界に一つだけのものさし

「どうして空は青いの?」

と単純な疑問を持つ子供のような感性を持ち続けられる大人は、ひと握りもいない。道端のかたつむりをいつまでも眺めている子供が持つ世界は、学校でみんなと同じであることを無意識のうちに強要されるなかで、静かに消えていってしまうのだ。

子供の頃に誰しもが持っていた、自分にとって美しいものや大切なもの、それが作り出す自分自身の世界。ものごとを測る自分自身の、世界に一つだけの物差しは、ミリ単位で定義された社会の物差しにすり替えられていく。そして気がついたら、自分が手にしているものは社会の物差しでしかなくなっている。

時間は刻々と過ぎ、日々は繰り返す。寝て、起きて、地下鉄に乗り、仕事に行く。そんなルーティーンの中で、自分がかつて世界に一つしかない物差しを持っていたことなんて忘れてしまうのだろう。

私はずっと子供でいたい、と思っていた。ピーターパン症候群というやつだ。ネバーランドでは永遠に大人にならないから。

でもそんな甘ったれたことは言ってられないのだ。
奨学金の仕送りは足りなくて、生活費をなんとか自分で稼がないといけないし、機会をもらったからには、とりあえずこの「学士号」という人生を多少楽にするパスポートを取っておかないといけない。AIが人間の知能を超えてきたなんて言われる時代にボーッとしてたらこれから先が危ぶまれる。とにかく私は「食ってかないといけない」わけだ。

1年間一人暮らしをして、自分のことは全部自分で決められるし責任も持たなきゃいけなかった。とにかく勉強して働いて、ご飯作って洗濯して1日が終わる。面白くなかった。

ああ、自分が大人になってしまう。と思った。

私がずっと子供でいたかった理由、それは自分の物差しを持ち続けられること、そして目を輝かせて世界を見つめ続けられることだった。子供にとって、毎日は発見だ。暇だから好きなこともするし、バカなこと、悪いこともする。なんの重荷も感じずに、そうやって経験して学んでいける。

でも、年齢の数字が20を超えて、お金を稼ぐようになっても、こんな子供の感性と物差しを持ち続けている人はたくさんいる。世間の「いい」に迎合せずに、ひたすらに自分の物差しと直観を信じて遠くを見つめ続け、前の人に続いてこぎれいなエスカレーターには乗らずに、泥だらけになっても自分の足で一歩ずつ地面を踏みしめて、歩いていく人。

私はそんな人になりたいのだ、と色んな大人に出会って気づいた。

都市ができ、人間は建物とその間の道、その中で繰り広げられる幻想の中に閉じ込められてしまった。この地球上にはまだ見ぬ美しい世界や、信じられないような人々の暮らしがたくさんあるというのに。

何者かになる、ということ


もう一つ、気づいたことがあった。
大人になる、というのは社会における「何者か」になるということだ。
「大人になったら、何になりたい?」と聞かれると、子供はたいてい職業を答えないといけない。

稼いでいるお金の量と個人の価値が正比例する資本主義社会の中で、市場価値を生み出せない子供はつまり、「何者でもない」。そして、学生は「何者でもない」ことが許容される最後の期間。
そう、私はそろそろ何者かにならないといけない。

でも、結局自分を職業や肩書きの枠にはめ切ることは出来ないし、そんな時代はもう終わったと思う。必要ならば適当に肩書きをつけて生きていけばいいし、そこに100%自分の人生のエネルギーを注ぎます、という無駄な真剣さはなくていい。他人が先に作ったものに自分が納得してそれになり切るなんて、はなっから無理な話である。

とにかく、結局自分は自分でしかなくて、それ以外の何かや誰かになることはできない。それなら周りをキョロキョロして一生懸命何かを探すよりも、とにかく自分の感性を信じて、地道に自分の足で一歩一歩進んでいくしかないのだという気がしている。だから、私の中にまだ残っている子供の物差しを磨いて、大事にして、歩いていこうと思う。

そんな思いで見上げる星空には、B612の星で今日も赤いバラに優しくガラスをかけてあげる王子様が見える。

キツネの言葉が思い出される。
私の大好きな言葉だ。

「たいせつなことは、目に見えないからね。」



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