あえて言葉で表現しようとしないこと

何かを言葉で表現するということは、現実世界から何かしらの情報を失っているということでもある。言語を用いて何かを抽象化するというのは、情報の消失に他ならない。詳細部分の情報の消失。

という訳で、言葉で表すことによって少しでも失われてしまう情報があるがゆえに、言葉にするのを躊躇うことを覚えた。

例えば、愛している、という言葉。

愛している、と言ってしまえるのは、その体験が自分にとっての既存の枠組みに入っているから。この人とのこの瞬間のこの関係を言いたいのに、愛している、という言葉を使ったら、それが他の、愛している、ケースと関連していることを示し、その特別性を薄めてしまう。だとすれば、今この瞬間あなたとともにいることを、それが特別であるように言語化することは不可能で、言語には限界があることを感じざるを得ない。

言語には、色々な定義の仕方がある。私のお気に入りは、世界を表象する記号全て、だったのだけれど、人間の抽象的思考を助けるツールという定義も悪くないな、と思った。ちょうどさっき、コンピュータによる深層学習は人間が複雑さを複雑なまま捉えることを助けるツールというパラダイムを目にしたからかもしれない。

言語は、言語を測るもの(定義)がない限り、言語とは呼べないだろう。言語が言語それ自身で存在する、と考えるよりも、前者の考え方の方が好きである。

同じ現象でも、パラダイムの違いによって随分と印象だ変わってくるものだなあなどと科学史家のTweetを見て考えるなど。やっぱり、私は歴史家的なwhyを考えるのが好きなのだろう、という結論に至った。

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