宗教的実践としての言語習得

言語習得の過程は、宗教に似ているのではないか、とふと閃いた。

言語習得において、その究極の目的はネイティブスピーカーのように話すことであるだろう。しかし、非ネイティブスピーカーはいかに努力を積み重ねようとも、ネイティブスピーカーになることはできない。これは、言語を学習する人にとって大いなる悲報である。が一方、ゴールが何であるかはっきりしているという点では幸運ではないだろうか。

そして、非ネイティブである言語学習者は、ネイティブスピーカーに近付くために、常に自分の発する言葉に自覚的でいなければいけない。正しい(=ネイティブより近い)発音を手に入れるためには、なんども繰り返し、自分の舌の位置が正しいかを意識していなければならない。

しかし、あるときふと、自分は以前より意識しなくても正しい発音ができているように感じることがある。それは、意識を伴う繰り返しにより為せる技である。これが、部分的にネイティブスピーカーになることであり、宗教的であると言えるのではないだろうか、と思ったのだ。

(ここでいう宗教とは、”一者”との一体を目指すような宗教、をイメージしている。)

自分はどう頑張り続けてもネイティブスピーカーにはなれない、という一種の諦めはネイティブスピーカー(の言語能力)に対する尊敬の念を生む。言語学習者がネイティブスピーカーに近づこうと努力することは、その言語に対しての敬意の払い方として最善かつもっとも明晰な方法であると思う。

私は、言語を学ぶ時に「コミュニケーションができればいい、言いたいことが言えればいい、文法より会話優先である」などのプラクティカルな言説にしっくりとこない感覚があった。そして、なぜ自分が違和感を抱くのかはかなり謎だったのだけれど、思うに、それはそのような言説がネイティブスピーカーの知識に十分に敬意を払っていないと感じていたからかもしれない。

誤解してもらいたくないことは、私は、ネイティブスピーカーを神格化しろ、と言っているわけではないということ。自分が持ち得ないものを持つものに対しての尊敬を忘れずに、しかし一方でそれを理解するために弛まぬ努力を実践することが結果的に自分の人生を豊かにしてくれるのだということが言いたい。


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