講義、最終週にて。

私があんまり好きではない教授の最後の授業で、先生が話したことで、少し心に残ったこと。

私たちは、その目的に応じて、異なる物事の切り方をする。

私たちはテーブルを描写するのに、何が重要かに応じて、何を描写するのかを変化させる。テーブルの上にあるチョークについて話すか、それとも、テーブルの色について話すか。テーブルがなぜ立っているのか、もしくはこのテーブルが必要なのかどうか。

私たちの語る世界は、そう考えると、本当に一面的であるなあと思う。私たちはどうやったって主観的な価値判断から逃れることはできない。それは悲しくもあり、しかし、どうしたって必要なことである。自分自身のアイデンティティ形成のため、そして自分自身の個性のために。

そんな主観的な価値判断であるにも関わらず、それは他人に理解される。そこには客観性が浮かび上がってくる。(客観性というよりも、間主観性と呼ぶべきかもしれないが。)その主観と客観をつなぐものこそ、言語であり、人間を人間たらしめている性質の一つなのである。

などということを、先生の「あなたならどのようにテーブルを描写(=décrire)するか、から考えるなどした。


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