見出し画像

『あめのけもの』

透明なレインコートを彼女が脱いで、宙に放った。
雨は降っていたけれど、狐の嫁入りのような天気だった。陽は射しているのに小雨が道路を灰色に濡らしていた。彼女の体から解き放たれた透明な、世界に溶け込むことをあえて拒むかのように薄い膜になったそれは、宙で光と雨粒を受けて異次元への入り口みたいだった。
キレイと笑った彼女の横顔をいまだに僕は忘れられないでいる。
オレンジ色の光の中にいた彼女は笑いながら、タバコを取り出して吸い始めた。口から吐き出された紫煙がふわりと浮かんで消えた。そんなことを急に思い出したのはコーヒーの香りと沸騰したお湯の水蒸気のせいだろうか。
いつも顔を出しているカフェのヘルプでスタッフとして入っていた僕は、お客さんのためにコーヒーを入れていた。店主は立て続けに注文の入ったスパゲッティーニなどの料理を作り終えて、タバコを吸いながらヤクルト戦の試合経過をスマホで見て軽い休憩をしていた。タバコは彼女も吸っていたピース。
一緒にいた頃は、朝目が覚めるのと同時にコーヒーの香りがあった。毎朝コーヒーを入れて、ベランダで一服するのが彼女の新しい朝の迎え方であり儀式だった。一日の始まりの風の中、コーヒーとタバコと彼女の匂いがベッドに届くのが好きだった。
あなたも自分でコーヒー入れればいいのに、と何度も言われたが付き合っているときには一度自分で入れたことがなかった。彼女が入れてくれたコーヒーを飲んでいたから、それがずっと続くものだと思っていた。しかし、いなくなってから僕はその不在を確かめるかのように、目が覚めるとコーヒーを入れるようになった。僕とコーヒーの匂いだけ、足りないのは彼女とタバコの匂いだった。
入れたてのコーヒーをテーブル席で熱心に小説を読んでいる女性のお客さんのところへ持っていった。入れるのよりもこぼさないで席まで持っていく方が緊張する、と言うと店主が笑った。明日って晴れるかな、とカウンターの常連のお客さんが僕たちに話を振るように言った。なんか、今日よりも十度ぐらい下がるらしいから、今日よりは厚着したほうがいいんじゃないですか、とスマホで見たニュースに書いてあったことを伝えた。
ヘルプが終わって家に帰ると深夜の一時前になっていた。真っ暗闇だと眠れないので、ノートパソコンでNetflixのサイトにつないだ。海外の映画を流しながら、音だけ聞きながら目を閉じた。その映画は少し前に劇場で観たことのあるもので、CGを駆使して作られているように見えるが、実はほとんど使われていないのが売りだった。
彼女と出会ったのは八年程前、当時の僕はまだ大学生で、場所は知人が出演した映画の打ち上げの飲み屋だった。彼女は映画に特殊造形で参加していたはずだ。最初になんの話をしたのか覚えていない。だけど、その日に帰り道が一緒だったからタクシーに乗って、なぜか目が覚めたら彼女のアパート兼アトリエだった。想像上のモンスターなんかの顔や腕や身体がゴロゴロしている部屋で、唯一現実的だったのは彼女が入れてくれたコーヒーの香りだけだった。
左の手首の下に真っすぐなラインのようなケロイドがあり、それが彼女の性感帯だった。彼女はそのラインと平行になるように、自分の技術を持って五本のラインを足した。一本目の元からあるラインから順々に、六本目をまでスワイプし終わると、「シックス」と言って笑った。第六感さえ作れてしまうという彼女なりのジョークだったが、当時の僕にはわからなく曖昧な笑みで返した。彼女は日本にプロモーションにやってきたアメリカの映画監督と意気投合し、そのままハリウッドに行ってしまった。もう五年も前のことになる。
僕の子守唄のように流れる映画は、彼女が去年のアカデミー賞のメイクアップ&ヘアスタイリング部門にノミネートされた作品だった。当時は彼女も日本のメディアの取材をいくつか受けていて、僕もそれを読んだ。前よりも若々しく自信に溢れているように見えた。
あるインタビューの写真で彼女の利き腕の左手のアップが掲載されていた。そこにはもうケロイドの一本目のラインも跡形もなく消えていた。あれは僕の勝手な妄想だったのだろうか? でも、その日のファッションで彼女は透明なレインコートを着ていた。笑いながらタバコを吸っている写真もあった。
変わらない部分は変わらない。でも変わってしまった、僕の知らないこの五年間とともに生き延びた彼女は、雨の日にはやはりレインコートを宙に放る気がした。そうであってほしかった。彼女の入れたコーヒーを飲みたい。彼女のいる街でコーヒーとタバコと彼女の匂いが届く場所に居たいと思った。でも、それはもう叶わないことは知っているから、僕はまた起きるとコーヒーを儀式のように入れる。白い朝に、コーヒーを。


菊地成孔プロデュース「めたもるシティ」から2年、ロックとダブを基調に新境地を開いた最新作「美しい傷」をリリース
■APLS1907 / 定価:1,500円(税別)
■参加メンバー
石若駿(CLAK/CAKS, くるり他) : Drums /西田修大(中村佳穂BAND他) : Guitar
トオイダイスケ:Bass, Electric Piano/安田コウタ: Organ, Pianica(2のみ)
■収録曲
1.コーヒータウン
2.リップクリームダブ
3.room707 ※7インチには含まれていない曲
4.ただの夏
5.トラベラーズソング

この掌編『あめのけもの』は6月12日(水)にリリースされるけもの『美しい傷』【マキシシングル(EP)】にインスパイアされて書いたものです。

10連休の長い休みの頃、近所のカフェでコーヒーを入れていた。そこに青羊さんがお客さんでいらっしゃって、一度お会計をしてお店から出て行ったのち、戻ってきたので「なにか忘れ物かな?」と思っていたところ、「今度EP出るのでなにか書いてくれませんか?」と言われて書きますと即答しました。このEPに収録されている五曲を繰り返し聴きながら、浮かんできた断片がこの掌編です。

↑「けもの」の最新情報などはこちらの公式サイトをご覧ください。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?