Meillassoux『有限性の後で』感想文その③

言語に回収されることのない事実性を巡るメイヤスーの著作の第三章の話。
ここでは、われわれの死後の未来はどうなのかを巡り五人の人物が対話を展開する。(邦訳では96~104ページ)

はじめ対話は二人の人物によってなされている。キリスト教的独断論者と無神論的独断論者である。われわれの存在は死後も神の観想において永続すると説くキリスト者に対して無神論者は死ねばわれわれの存在は完全に破棄されるのだと応える。

ここに第三の人物、われわれの主人公たる相関主義者が登場する。
いままでの議論を簡単に思い起こしておけば、相関主義のキーコンセプトは「存在するとは相関すること」なのであった。いかなる知も私の言語的なアクセスとの関係ではじめて成り立つのであるから、言語によってアクセスされないものは、語り得ない形而上的思弁以外の何者でもないのであった。

われわれの相関主義者は二人の独断論者に対して言う。
知というものは、この世界に属している存在を前提にしている。だから、死後という不可知については、私が生きていないときに何か在るかを知ろうというのは、知の本質からして矛盾している。
なるほど、知の外部にあるものに対して、知をもって応答しようというのは、その試み自体が矛盾を孕んだ試みだというわけだ。

しかし、ここに四人目の人物が加わり、相関主義に難題をつきつける。さて、先回りしてこの章を要約すれば、この難題とそれへの応答がこの章の大団円である。そしてメイヤスーはこの応答の中に「相関的循環における裂け目」を見ようとするのだ。
その四人目とは、主観的観念論者である。
彼も、存在にとっての要を私という主観においている。彼にとっては、私へ現れる観念のみが存在なのである。すると、死後の世界とは。私がいないことを、私はいま私の身体と思考をもったまま考えざるを得ない。しかし、私はいま存在しながら考えている。すると、私によって考えられる私の死後も私が存在したまま考えられているということだ。そうなると、私はいつも存在しているといえる。
この議論自体は、思考と存在の混同以外の何ものでもないのだが、相関主義にとってはどうしても自身の立場との違いを表明せざるを得ないだろう。

相関主義は「死において私がまったく別様になりうること」は「思考可能である、と主張しなければならない。」(p.98)そして、次のように応答する。「私は、なるほど、思考不可能なものを思考できないが、思考不可能なものの可能性であれば、実在の非理由において間接的に思考できるのである。」(p.98)

メイヤスーがここで述べていることはデカルトが第六省察で洞察したことがらに通じるのではないだろうか。私なりに言い換えれば、思考不可能なこと(対話では死後の私の存在であった)を、その内容と形式に分かてば、死後、私が天国に幽閉されたり、地獄のおちこちをへめぐったりという内容は、真偽をともなった語りになりえないが、形式は語れるだろう。私にはいつか死が訪れ、死後の何らかの世界があるのは、まったく確からしいことではないか。

対話は終焉を迎えようとしている。五人目の人物がこれまでの話をまとめにかかる。思弁的実在論者、つまりメイヤスーの分身である。
彼は、相関主義者が語る「思考不可能なもの」が、まさに「絶対的なもの」「事実論性」に他ならないという。
相関主義者は、存在を言語と相関してはじめてあるものと考えるが、その非存在を考える思考の型それじたいは、まったく無根拠にあたえられた非相関的なものである。したがって。この世界の絶対的な事実性は、相関主義が主観的観念論に与えた応答の内に示されているのだ。その応答にある、非存在の可能性は、この世界で語りうるあれやこれやを越えているという意味でまったく思弁的であるし、また、どんな言語的相関とも関係しない絶対的に存在するものであることから実在的である。

かくして、われわれの世界には、思弁的な実在があることが示されたというわけである。

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