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靴づくりとボロネーゼ

最近の食生活

 ドイツで生活を始めてはや半年。ホストファミリーの元を離れて工房で働くようになり、一人暮らしを始めている。それに伴って、ほとんど毎日自炊をしている。それ以前は、ありがたいことにホストマザーが食事を用意してくれていたので、スーパーでの買い物も必要なかったのだが、今は日々何かを買いに行くようになった。
 ドイツではわりとボロネーゼをよく見かける。もちろん、ボロネーゼ自体はイタリアの料理なのだが、ドイツではイタリア料理はあたりまえに日常のものとして存在している。いわゆるレストランに外食に出かけると、メニューの一番安い位置には、ボロネーゼか、ハンバーガーが10ユーロ前後の価格で並んでいる。ドイツ人にとって、すごく身近なちょっとおいしいもの、という位置づけにあるようで、ドイツ人と話していると、手軽な料理の例としてよく挙げられるのだ。ホストファミリーのもとでもたまに食卓に上がった。
 
確かにスーパーで買い物をしていて気付くのは、その辺の料理は確かに簡単に作れるなぁということだった。わたしはもちろん日本人なので日本食を作る方が身近なのだが、それでも、ヨーロッパで暮らしていると、一番簡単においしく作れるのはその現地でよく食べられているものである。バター、ひき肉、赤ワイン、トマト。この辺があればまぁちょいと作るにはすぐできる。この国では味噌汁、納豆、焼き魚に、ほかほかの白米を用意するのは至難の業だが、現地人が良く食べるものであれば簡単だ。ほかにも、あたりまえだが、じゃがいもも安いし、ソーセージも肉類の中では比較的安い。ドイツだもんね。そんなわけで、私は日常的にボロネーゼを作るか、ソーセージを焼くか、いもをゆでている。

おいしいボロネーゼ?

ボロネーゼは思いのほか難しい。簡単といえば簡単である。日本人的なイメージでいうと、いわゆるミートソーススパゲティなので、ミンチと野菜を炒めてケチャップを加えて味を調えて、なんとなくそれっぽいパスタにすることはできる。比較的手抜きが効く料理であるが、それなりにちゃんとやろうとするならば、次のようになる。
オリーブオイルかバターににんにくを加えて、香りを移す。この時、にんにくの量は次の予定を考えない程度に、おもっているより気持ち多めにいれる。ひき肉には事前に塩コショウで下味をつけておく。にんにくからきちんと旨味を引き出せるように火加減を気にしながら炒め、十分に火が通ったらひき肉を加えさらに炒める。ここに赤ワインとトマトピューレを加え、赤ワインが十分に煮詰まるまで煮込む。セロリなどを加えてもいいだろう。ハーブで香り付けをしてもよい。
この作業の間に並行して、パスタのゆで汁を用意する。塩をひとつかみお湯に加える。ホストマザーはここにバターかオリーブオイルを加えていた。パスタのゆで汁もまた奥が深い。ゆで汁はパスタからのでんぷんと、加えた塩分で、乳化を助ける作用がある。ここに油分が含まれていることでさらに乳化しやすくなり、のちのち、ソースとのからみがよくなるのだ。ソースが十分に仕上がってきたら、ここにこのゆで汁を加えるのである。ゆで時間もまた重要だ。少しコシのあるアルデンテに仕上げたければ、表示時間よりも少し短くゆでる。ゆであがったら、盛り付ける。最後にかけるチーズも、日本なら粉のパルメザンチーズ、となるが、本当は、本家本元のパルメジャーノレッジャーノを振りかけると劇的においしくなる。最後にハーブもちらしたい。こだわる人なら、最後に質の良いオリーブオイルをひとまわしするのもいいだろう。

さて、ここまでで既に相当手間をかけているが、これらの中で省いてしまえることは一体いくつあっただろう。まず赤ワインはまぁ最悪なくてもトマトソースはできあがる。セロリだって苦手な人もいるから省いていい。ゆで汁も、最後に加え忘れてもまぁパスタであることに大きな影響はない。トマトピューレは省きたくないが、ケチャップでもいけなくはない。にんにくも入れすぎると明日の予定が気になってしまうから、省く人は省くだろう。「パルメジャーノレッジャーノなんて高くて買えないわ、粉チーズがあるじゃない」と思われる方の方が大半だろう。
実際問題、私も怠惰なのでたいていどっかで手を抜いている。全部用意しているとたいていのものは余りが出てしまうし、そのためだけに買い物をしているわけではない。適当にあるものないもので、おなかの減り具合と相談しながら手を抜いている。
だが、そうして手を抜いていると、ある日失敗作が生まれてしまうのだ。「手抜きの塊」みたいなボロネーゼがある日爆誕してしまうのである。しかし、基本的にわたしも怠惰な人間で、疲れてくるとこの手抜きの塊みたいなものをよく作ってしまう。そのたびにちょっとしょんぼりしてしまう。疲れているからなおさらだ。「あーーーー、赤ワイン買っときゃよかったーーーー、」とのちのち後悔する。日々はそんな小さなごまかしと後悔で満ちている。

靴づくりと「手抜きボロネーゼ」

手を抜けば、手を抜けてしまうものは世の中にたくさんある。手を抜いても、それ自体として成立するものが大半だ。ものづくりと呼ばれるもののおよそほとんどすべてにおいてそうではないだろうか。簡単なように見える商品は、実は本来様々な工夫がかくれているのだが、正直消費者にばれないように手が抜かれていることもたくさんある。消費者との化かしあいは、大抵において作り手に有利にできている。売り文句があって、それに消費者が納得し、支払いを済ませてしまえば、ものづくりは作り手の勝利だ。ただ、この化かしあいを化かしあいとしてしまうのは、誠実には思えない。しかし、作り手として誠実であり続けることもまた同様に難しい。

靴づくりもまた、まったく同じことがいえる。工程を省略したり、材料を安いものに代替したり、必要なパーツを省いたり、靴づくりを知らない方には驚かれるかもしれないが、思いのほか手を抜いてしまえるところは多い。いわゆる安く大量に流通する靴は、すべてではないにしても、そうした省略の集積地となってしまっていることもあり得るのである。たとえば、かかとを固くする月形芯などは安価な市販品だと、非常に弱いものが入っていることがある。場合によってはそもそも入っていない。シャンクと呼ばれる靴の中に入っている芯材もまた、省略されることがある。革もそうだ。最高級の革をいつでも使えるわけではないから、安いもので代替する場合もあるし、さらにいえば人工皮革という選択肢にもなってくる。製造過程で、木型へのつり込みから放置する時間も、十分な時間をかけていないこともあるだろう。
また、靴の建付け一つ取ったってそうだ。本来であれば、平面に置いた靴はガタついてはいけないし、これは街の靴教室などでも当たり前に教えられる。そうしたガタつく靴はたしかに体重が乗れば見かけ上問題ないのだが、その実不安定で足には見えづらい形でダメージを蓄積していってしまう。
しかし、消費者にとってこれらの情報は常にオープンではない。消費者は靴の専門家ではなく、販売文句や価格帯で消費選択をせざるを得ない場合がほとんどだろう。アンフェアではあるが、作り手と消費者には、それだけの情報格差が存在しているのである。たとえ靴マニアであっても、商品の本当の製造過程を正確に把握している人はほとんどいないだろう。カーフレザーを使っていると書かれていても、実際にタンナーまで追跡して、それがどのような加工を経ているか、どの牛を利用しているかを確認することは難しい。これらのことは自明ではない。
ただし、そうした手抜きを悪意もってやっているかと言われると必ずしもそうではないと私は思っている。ボロネーゼと同じだ。そのメーカーや、作り手にも様々な経済的、構造的制約がある。販売コスト、人件費、マーケティング。様々なプロダクトを生産する中で、そのプロダクトにかけられるコストにも制約が生じる。ある種の努力の上に「手抜き」の部分をうまく含めながら、消費者に商品を届けているのである。いつでも最高のものを作れるわけではない。いかにその「手抜き」と折り合いをつけ、まじめに仕事をし、誠実にものをとどけられるかに日々多くの人がしのぎを削っているのだ。

 先日、私の工房の親方に、コルクのインソールの削り方を指導してもらっていたとき、親方はこう言っていた。

「1mm誤差は『悪い』わけではない、『最悪』なのだ。3mm誤差はどうだ。これはもう『壊滅的』だ。私の親も靴職人だったし、そのように教えられてきたのだよ。」

 そう、靴づくりにとって、本当はその1mmこそが核心を突くことがある。今の私にはまだかなり難しく、その奥の深さに挫折しかかるほどだ。私の工房は確かに腕の確かな工房ではあるが、世界的なブランドなどではなく町の工房だ。それでも、そこでものづくりにかけられているエネルギーは一般人の想像を簡単に超えてしまう。「これくらいのミスは大丈夫かな」と思っていた私の手抜き精神が、見事に看破されてしまうのだ。確かな商品の裏には、その1mmをおろそかにしない、まじめさがある。

ものづくりと誠実さ

 つまるところそういう所なのだ。良い商品には、まじめさがある。おいしいボロネーゼもまじめに作らなければ作れない。どんな商品にももちろん、それぞれに様々な制約や障壁があり、常に最善の選択を取り続けることはできないかもしれない。しかし、初心に立ち返り、1mmをおろそかにしない精神を持てばこそ、仕上がるものは優れたものになる。安くても、いくつかの妥協があったとしても、その制約にぎりぎりまで肉薄し、与えられたリソースで可能な限り誠実につくったものは、消費者にとって、良いプロダクトになりうる。
 消費者への情報的な優位さを盾に、ごまかしたり、値段を釣り上げてみたり、商売文句やマーケティングに投資して経済活動を完結させてしまうことはできる。できてしまう。けれどもそうした商品には愛がない。消費者を「どうせわからない」と足元を見るようなものづくりには、消費者へのリスペクトがない。そうしたものは、一時市場で売れたとしても、いつしか淘汰されてゆくのである。
 このものづくりへの誠実さは自分にとって今みにつけるべき誠実さだと思う。


 ある日、いい加減「手抜きの塊ボロネーゼ」にいい加減業を煮やし、今日こそは!と思ってボロネーゼを作った。にんにくをケチらず、安くてもちゃんと赤ワインを買い、パルメジャーノレッジャーノが安かったのできちんと買い、ゆで汁をおろそかにせず、まじめに作った。必要な工程をぬかりなく、おいしさ求めてまじめに。
 するとどうだろうか。やっぱり普通においしいのである。当たり前と言えば当たり前だが、手抜きボロネーゼの数倍うまい。小さな手抜きの蓄積は大きな差になっていたことに気づかされた。なんだ、おいしいじゃん。調子に乗ってワインをしっかり開けてしまった。

そして後日、このくらいおいしくできるなら、ここは省いてもいっか、と赤ワインを買わなかった。ゆで汁も適当に捨ててしまった。まぁ、おなかすいたしね。早く食べたいから、ささっとおいしく。

そうして自分は、また「手抜きボロネーゼ」にしょんぼりしているのである。

 
 

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