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効率が悪くて目的のない読書がしたいという話

noteの更新をしばらくしていなかったが意外にも読んでくれる人が多いということをTwitter(現X)で教えてもらう機会が増えた。(ところでX(元Twitter)という呼称と表現には未だに慣れない。Twitterは永遠にTwitterである、と今年いっぱいくらいは主張しようと思う。JRのことをいまだに国鉄、イオンのことをジャスコと呼ぶ人たちの気持ちが痛いほど分かる。)

元々文芸部にいたせいか取り止めのない文章を書くのは得意(実利的かどうかは分からない能力である)なので、今日は大学時代から日常的に行なっている読書について最近考えたことを書こうと思う。

大学で得た一番の財産は、「体系化されていない、どこで役に立つのか分からない知識」であると思う。雑学とくくってもいいかもしれない。ただ、ここでいう知識とは「ゴリラはみんなB型だ」とか「東大前の店で人気の甘い蜜がかかっている芋が大学芋の語源だ」とかそういう雑多な知識のことではない。

私が18歳から22歳まで得てよかったと思う知識は、特に目的もなく図書館で手に取った本から得た「お金を持たなくても幸せに生きた人はたくさんいる」とか「肉体労働をしながら哲学したエリックホッファーという人物がいる」とか「時間という概念は物理量で測ることはできない」とか、そういう「普通に暮らしていれば知ることがない知識」のことである。

山口県山口市で生まれ育ち、幼稚園と小学校と中学校と大学が徒歩5分圏内にあり、10ヶ月だけケンタッキー州に暮らしていたという、ネット上で遭遇することがあまりない属性の私が、そうした「世界のどこかで誰かが考えていること」を覗き見て、自分の考えを修正することができる唯一の手段が読書だったのだ。

さて、ここまでは思い出話だが、先日1月13日に31歳になってから(ハピバ)悩むことがある。

本屋に赴いても仕事に「役に立ちそうな本」を探してしまうことである。
これは必ずしもお部屋を綺麗に片付けるノウハウ本(Konmari method(エエ声))や自己啓発本のことを指しているのではない。
 数ヶ月後に迫った試験や、今後の仕事のために役立てよう、とかそういった目的のために探してしまうあらゆる本が「役に立ちそうな本」である。

本を読んで何かの役に立つのなら結構じゃないか、といえるかもしれない。むしろそういう目的で本を読むことで生活に役立つことも多い。
 しかし、考えてみると私が英語の勉強やその他の外国語を勉強していた理由は、「英語教師になるため」でも「TOEIC900点を取って仕事に活かすため」でも「社会人として教養を身に付けるため」でもない。
純粋に知らないことを知れる刺激があったから勝手に読んでいただけなのだ。つまり、何の目的も目標も動機づけもなく、なんか面白そうだから読んだ本たちが、なんだかんだで一番仕事面でも交友面でも「役に立って」いるのである。

これがなかなか世間的にウケが悪い。
特に教育業に従事していると、時間の制限がある中で最も効率的でコストパフォーマンスの良い学び方のノウハウを提供しなければいけないし、そういう責任が私にはある。

それでもやはり、継続して何かをやり続けるには一切の効率性や実利性を無視した単なる興味関心が必要だと感じる。まさに、好きこそ物の上手なれである。

効率や実利性を追い求めることは社会的な成功に繋がるし、世の中を生きていく上で必要なスキルだと思う。しかし、単に何かをやってて「楽しい!」という気持ちを失えば、本来求めていた結果はむしろ
遠ざかり、何のために自分が読書をしているのか、勉強をしているのかが分からなくなり、骨抜きの状態になってしまう。(not knowing why they are doing what they are doingという言い回しが浮かんだ)
この状態を私は悪い意味で「大人になる」と呼ぶ。

大人としての生真面目さと、子どもとしての無邪気さの絶妙なバランスを保ちつつ、見る人が目を輝かせて「楽しそうだな」と思ってもらえる、そんな大人になりたいと思う。

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