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22 会社の目の前にあった楽園(下北沢編05)

 下北沢での酒ライフを語るときに、決して外せない店が一軒ある。「レストランバー 旬亭」である。開店当初はカウンターしかない小さな店だったのだが、自ら「レストラン・バー」と名乗るだけあって、マスターの作る手料理がうまい、食事のできる店だった。

 あれは1993年4月のこと。黄色いビルの4階にあるゲームフリーク出版部の自分のデスクで仕事をしていると、一本の電話がかかってきた。それはアスキー編集部からで、今度創刊される雑誌でコラムの連載をしませんか? というものだった。
 もちろん、ふたつ返事で引き受けた。ぼくは株式会社ゲームフリークの正社員になってはいたけれど、それとは別にライター「とみさわ昭仁」としての顔もあったから、記名コラムなどの副業をするのは許されていた。原稿料も、会社を通さず直接自分の口座へ入れていい。その辺のゆるさは、田尻社長自身もライター出身だったことが関係している。
 それはともかく、コラムを引き受けたぼくは少し考えて「日常の中にあるスイッチ(なんらかの転換点)」のようなものをテーマにすることにした。担当編集者にそう伝えるとすぐに了解してくれ、本文の横には誰かマンガ家さんにイラストを描いてもらって添えようということになった。
 ぼくごときの連載に描いてもらえるかわからないけれど、当時、大好きだったガロ系のマンガ家の名前を提案してみると、編集さんはこう言った。
「そんなマイナーな人じゃなくて、もっとメジャーな作家に頼みましょうよ。それくらいの予算はありますから!」
 最初に名前を挙げたマンガ家さんには大変失礼な話なんだけど、よりメジャーな人に頼めるのはありがたいことだ。そして編集さんはこうも続けた。
「中川いさみさんなんてどう?」
 マジすか! もちろん『くまのプー太郎』は大好きで「スピリッツ」も毎週買っていたくらいだから、その提案に反対なわけがない。それで数日後に、打ち合わせを兼ねた顔合わせと会食をした。ぼくと中川さんは同世代(彼が1コ下)ということもあって、ぼくらはすぐに打ち解けた。
 それからしばらくしたある日のこと。会社で残業をしていると、中川さんから電話がかかってきた。

 中川「シモキタで飲んでるけど来ませんか?」
 とみ「どの店?」
 中川「旬亭」
 とみ「知らないなあ」
 中川「あんたの会社の真ん前だよ!」

 慌てて仕事を片付け、会社の玄関ドアを開けてみたら、たしかに真向かいに「旬亭」という看板があった。ここにそんな店があったことは、この日までまったく気づいていなかった。
 ドアを開けてみると、中は10人も来れば一杯になるような手狭な店だった。そのときどんな話をしたかまではさすがに覚えていないが、中川さんは隣で飲んでいる人物を「この方もライターなんですよ」と紹介してくれた。それがひとつ年上のライター鎌田崇太郎さんで、その日は来ていなかったけれど、マンガ家の山本直樹さんの幼馴染みであり、直樹さんもよくこの店に来ているとのことだった。
 その日以来、ぼくの旬亭通いが始まることになる。いまぼくの周りにはマンガ家の友達が多いが、その大半はこの店で知り合った。そして、ぼくが通い始めて数年が経ったとき、旬亭はゲームフリークの真向かいから少し離れたところへ引っ越すことになる。それが、偶然にも以前プライベート・バーが入居していた物件だったのだ。
 ここでの出会いと別れは数限りない。たくさんのマンガ家たちの他に、ライターやミュージシャン、編集者、よくわからない遊び人など、いろんな人が出入りしていた。妻と出会ったのもこの店を通じてのことだった。いまだに交流が続いている人もいれば、すでにこの世にいない人たちもいる。
 そんな旬亭も、2008年の5月に営業を終了した。

 ※写真は、プライベート・バーの跡地であり、旬亭の跡地でもある物件。現在は牛タン屋さんになっている模様。そして、下北沢編はしつこくまだ続きます。

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