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27 高尾山で見た雨のカーテン

 積極的にはお酒を飲もうとしない妻が運転を引き受けてくれたおかげで、自分の知らなかった場所、行こうとは思わなかったような場所へ行ってお酒を飲める機会が格段に増えた。住まいが昭島市にあったため、行動範囲は西東京や埼玉南部が中心となる。横田基地周辺、多摩ニュータウン、昭和記念公園、サマーランド、西武球場などなど。

 いつかの夏の日、妻が「高尾山に行こうよ」と持ちかけてきた。
 あの当時、家にもPCと常時接続のネット回線は整備されていたが、まだ通信速度は遅めだったので、それほど頻繁には利用してなかった。だからネット情報ではなく、新聞の折り込み広告か何かで見つけたのだろう。高尾山の標高488メートル地点に「高尾山ビアマウント」という名前のビアガーデンがあるというのだ。暑い夏、山の上に登って、風に吹かれながら飲む生ビール。最高じゃないか!
 都内の在住者なら、新宿から京王線の特急で終点の高尾山口駅まで行くところを、我々は昭島から向かうのでクルマで30分ほどあれば行けてしまう。そして、クルマを適当な駐車場に停め、高尾山口駅から徒歩5分ほどのところにある清滝駅でケーブルカーに乗って上を目指す。
 そんなものには乗らず、山道を徒歩で登ってもビアマウントには行けるし、そのほうが疲労と喉の渇きでより一層ビールがうまく感じられるはず。それもまたよし。でも、ケーブルカーはケーブルカーで独特の楽しさがある。
 当時はまだ高尾山ビアマウントの存在が世間(多摩地区とは縁遠い人々)には知られていなかったため、会場はそれほど混んでいなかった。初めて行ったときはまったく並ばずに入場できた記憶がある。いまはおもしろい場所はあっという間にネットで拡散されるので、シーズンになると大行列だ。
 さて、料金を払って会場入りしたら、好きな席に陣取る。メインフロアにはパラソル付きのテーブルとプラスチックの椅子がいくつもある。いかにもビヤガーデンといった感じで気分が出るが、山の天気は変わりやすい。できれば、ちゃんとした屋根のあるところを確保したい。
 そこで、多くの客は円形のテラス席を狙う。ここは会場の一段高いところにあって、見晴らしも抜群にいい。料理やビールサーバーがある場所へのアクセスが悪くなるというデメリットはあるが、そんなもの絶景ポジションというメリットに比べたら、なんということはない。
 開放感が気持ちいいので、若い頃からビヤガーデンにはちょくちょく行っていたが、どれも都心の駅ビルやデパートの屋上ばかりだ。風景といっても薄汚れた高層ビルしか見えない。それに、都内のビヤガーデンは高い料金の割に料理がおいしくない。油ぎった焼きそばに、痩せたウインナー炒めに、萎びたポテトフライに、冷えた枝豆。学園祭か。
 でも、高尾山ビアマウントへ初めて行ったときに驚いたのは、料理がどれもおいしかったことだ。たしか店内に貼られたポスターで「腕のいい料理人が料理を担当しています」的なことをアピールしていた記憶がある。ビールがうまいのは当然として、そのうえ美味と絶景。パリッコくんの言葉を借りて言うなら、あれこそ「天国酒場」だ。
 何度目に行ったときだったかは忘れたが、テラス席で飲んでいたら、遠く横浜方面から雨雲が接近してくるのが見えたことがある。高尾山は晴れているのに、雨雲の下は土砂降り。それがグングンこちらへ向かってくる。パラソル席の人たちはジョッキを持って屋内に避難したが、このテラス席は最初から屋根があるので大丈夫。どうなるのかなあと、ビールを飲みながらその瞬間を待つ。
 やがて、雨雲は町田から相模原を経て高尾山に到達。あたり一体を10分ほど土砂降りで包み込むと、雨のカーテンは何事もなかったように奥多摩方面へ去っていった。あれはとんでもなくおもしろい体験だったな。
 雨雲通過はともかくとして、この楽しい遊びを独占してはいけないと、旬亭仲間にも声をかけ、毎年夏になるとみんなで高尾山へ繰り出すようになった。行きのケーブルカーでは傾斜する車内で船木(スキージャンプ)の真似をするのが流行した。

 その後、我が家は妻の病気療養の都合もあって昭島を離れ、松戸市のぼくの実家へ住まいを移した。そうなるとさすがに高尾山まで行くのは厳しい。かわりに我が家から行きやすい筑波山あたりにビアガーデンがあったりしないかと検索してみたが、残念ながらそういうものは見当たらなかった。
 高尾山ビアマウントを見つけてくれた妻は、もうこの世にいない。そのかわりというわけでもないが、娘が成人してお酒を飲めるようになったので、今年の夏は娘と一緒に高尾山へ行ってみようかと思う。

※画像は公式サイトより拝借しました。

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