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50 一人飲みを生き直す

これまで何度も書いてきたように、ぼくは“一人飲み”を愛している。酒の相棒であるキンちゃんと馬鹿話をしながら飲むのはとても愉快な時間の過ごし方だが、やはり気に入った店で一人、本を読んだり、スマホを見たり、あるいはぼんやり考え事をしながら飲むのが、いちばん好きだ。

だから、酒のことをエッセイに書こうとすると、どうしても一人飲みに関する話題が多くなる。一人で飲んでいるときに見た光景。一人で飲んでいるときに遭遇した出来事。一人で飲んでいるからこそ思いついたアイデアのあれこれ……。

そんなぼくなので、書店で新刊チェックをしていて『一人飲みで生きていく』なんてタイトルの本を見かけたら、買わずに通り過ぎるわけにはいかない。著者は元朝日新聞記者で、現在はエッセイストの稲垣えみ子さん。酒好きとして知られる彼女が、これまで憧れていながらも足を踏み出せなかった一人飲みの世界にチャレンジしていく、というものだ。

わくわくしながらページを開く。

第1章では、御自身がなぜ一人飲みに憧れたのか? なぜ一人飲みに踏み切れなかったのか? そういったことの説明が語られる。勇気を出して一人飲みに挑戦してみるが、うまくいかない。そんな失敗談をも軽やかな文章で綴っていく。

これを読んだ時点で、ぼくはちょっとした違和感を抱いた。そして第2章を読み進むうち、その違和感の正体に気づいた。何が書かれているか要約しよう。

ある夜、稲垣さんは一人酒デビューを目指して一軒の居酒屋を訪れる。この日のためにあれこれ作戦を練り、一人飲みに適していると思われる店を探しておいた。立地、店構え、店主の人柄、店内の造り。条件はいろいろで、ぼくの考えと違っていたりするところもあるが、人それぞれに理想の一人飲みがあるのだから、それはかまわない。問題はその後だ。

彼女は、一人飲みに出かけて行き、店内で一人ポツンと浮いてしまうことを心配する。それを避けるために必要なものは……「そりゃやっぱ、会話でしょう!」と言う。

あれ? 会話? 誰と?

この店には仕事の関係で一度来ている。だから、恐る恐る店内に入っていった彼女を店主は「あ、イナガキさん、覚えてますよ」と歓待してくれる。その後、席に着いてからカウンター越しに店主へ以前お世話になったことの例などを述べる。そんな会話からスムーズに注文を済ませ、酒とつまみをやり始める。

一旦落ち着くと周囲の会話も耳に入ってくる。隣に座る会社の先輩・後輩らしき男女は、この近所で行われた日本酒のイベントの話を店主に話して聞かせている。偶然このイベントに行っていた稲垣さんは、つい話に引き込まれ、微笑ましく聞き耳を立てる。

すると、その隣客と目が合い、稲垣さんは思わず「私もイベント行きましたよー」と話しかける。それに続けて彼女はこう書くのだ。

「すごい! 私、見知らぬ人と自然に会話できてるじゃん!」

さらに、こうも書く。

「こ、これは私、ついにやったのでは? リラックスして一人飲みを楽しむという人生初の時間が過ぎてゆく」

いやいやいやいや! ぼくは手にした本をバサバサと振った。いやいやいやいや! それは一人飲みって言わないよ! 稲垣さんは一人飲みというものを誤解している! 酒場で店主に話しかけ、隣の客とも楽しく会話を弾ませるのは、店主や隣の客と飲んでるのであって、断じて一人飲みじゃない!

と、ぼくは憤慨した。「酔ってるス」や「マニタ酒房」を読んでくださっている方なら、その気分はわかっていただけるはずだ。

一人飲みというのは、一人で酒場に行き、一人だけの時間を楽しむ、とても静かで、とても豊かで、とても尊いもの。そこに顔見知りの店主や店員さんとの親しげな会話や、隣り合わせた客との交流などが入り込んでくるのは、ノイズでしかない。その瞬間に一人飲みはブチ壊しになる。ぼくはそう信じていたからだ。

もう、この本は読む価値ナシ。ゴミ箱へダンクシュート決めてやる……と思いかけたのだが、さすがに買ったばかりの本を捨てるのは惜しい気がして、数日はカバンに入れて持ち歩いていた。

そして、ある日。午前中の用事を済ませ、その日は締め切りもないし、北千住でちょっと一人飲みでもしていこうと、昼からやってる某酒場に入った。カウンターに座り、酎ハイとつまみを頼み、ぼんやりする。スマホを見たり、閃いたアイデアを手帳にメモしたりして時間を過ごす。

すると、隣に座っていた30代くらいの男性客がふいに話しかけてきた。

「コロナも少しは落ち着いてきて、よかったですねえ」

アチャーと思った。これぼくの苦手なやつ。一人飲みできないくせに一人で酒場に来て、隣の客に世間話を仕掛けて退屈しのぎしようとするヒト。しかもマスクしてない。いや、マスクの件はこの際いいや。酒場でのマスクマナーの話をすると本題から逸れすぎるので、そこはおいておく。

一人飲みを愛するぼくは、思わず「すいません、一人で飲むのが好きなので放っといてくれますか」と言ってしまった。その人も悪い人ではないのだろう。「ああ、すいません」と軽く謝り、以後、話かけるのをやめてくれた。

が、ぼくはここでちょっと考えた。(なんだか申し訳ないことをしたな)と思った。(何も「放っといてくれますか」はないよな)とも思った。それで気持ちを切り替え、今日はこの人と話してみることにした。

先ほどはキツイ言い方してごめんなさい。せっかく声をかけてくれたのだから、ちょっとお話しましょう。実は最近こんな本を読み始めましてね、一人で飲むということに対していろいろ考えていたんですよ──。

ぼくは鞄から『一人飲みで生きていく』を取り出すと、例の憤慨した箇所を見せ、自分の一人飲み論を滔々と語って聞かせた。相手は「ふむふむ」と頷きながら聞いてくれていたが、最後にこう言った。

「あなた、面倒臭い人ですね」

だめだ……、全然伝わらなかった。自分が面倒臭い性格であることは重々承知しているが、初対面の人間から言われるとさすがに腹がたつ。結局、マスクマナーのことも含めてその人とはちょっとした口論になり、これ以上話してもあなたとは分かり合えないと切り捨て、ぼくは席を立った。暴力沙汰にこそならなかったが、非常に後味の悪い思いをした……。

店を出て、帰りの電車であれこれ考える。

あのとき、ぼくが別の言葉を使っていたらどうだろう? 本を見せて自論を述べるのではなく、彼はどう思うかを聞いていたらどうなっただろう? せっかくインタビューを仕事にしているのだから、もっと彼の考えを聞き出せばよかったのではないか?

時間が経って、冷静になってみると、自分の欠点が見えてくる。

ぼくは何事に対しても頑(かたく)な過ぎるのだ。面倒なこだわりやマイルールの数々は、それが創作の原点であり、アイデアの元にもなるのだけど、それによって余計な摩擦を生んでしまうこともある。ぼくはもう少しゆるく生きるべきではないのか。

そう思って『一人飲みで生きていく』の続きを読んでいくと、第3章に次のような一節があった。

「人付き合いが得意でない人にこそ一人飲みはぴったりだ。だって誰かに気を遣いながら食事の約束を取り付けたり、時間を調整して待ち合わせしたりする必要もない。ただ気が向いた時に一人でふらりとどこかの店に入り、行きずりの人たちの中に紛れ込んで、周囲にそこはかとなく受け入れてもらい、自分も周囲の人を受け入れながら、ただの無名の人間としてリラックスしてその時間を楽しむだけである」

まったくその通りだと思う。ぼくがこれまで酒エッセイに書いてきたことと矛盾しない。ただぼくにはこのゆるさが欠けていた。そのことを教えてくれただけでも、この本には価値がある。

これからも、酒場で自分から隣の客に話しかけるようなことはしないと思うが、話しかけられたときくらいはそれを拒絶せず、自然に世間話をしようと思う。ずっと酒場を好きでいるために。

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