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月と六文銭・第十七章(08)

8.飯田すみれ:愛人
 Handa, Sumire: The Mistress

 飯田はんだすみれは今夜も筋肉痛になるほど突っ張って、強張って、イった。気だるそうに彼・秦江毅シン・コウキが買ってくれたシルクのパジャマを着ながら思ったのだ。
 絶対、セックスのテクニックではない。彼は私をイかそうと頑張ったことはない。たぶん同級生が言うところの「相性が良い」のだろう。彼もちゃんとイっている。外したコンドームの先端にはいつも精液がたくさんある。多分、週の途中でどこかで出すことはなく、私としかしないというのは本当な気がする。

 グッ。何?胸が締め付けられるこの感じ、確かお父さんが亡くなった時の感覚に似ている。彼に何かあるということ?気になる、いや、気持ち悪い。彼に伝えた方がいい?気になるから言っておこう。

江毅コウキさん、今夜は泊っていきませんか?」
「ん、どうしたのだ?
 君がそのようなことを言うとは驚きだ。
 私が泊っていけないのはよく分かっているだろう?」
「胸騒ぎがしたのです」
「ムナサワギとは?」
「日本では悪い予感ということです」
「どういうことだ?
 話してくれないか」
「今夜、帰り道、何かありそうなの。
 ごめんなさい、はっきり分かっているわけではないのですが」
「もっと話してくれ」
「私の父が亡くなった時、私は胸がグッと締めつけられる感覚があったのです。
 その翌日、父は電車の事故で亡くなりました。
 日本では有名な関西・尼崎あまがさきの鉄道事故で、その時、百人以上が亡くなりました」

 秦は合理主義者だった。占いとか、霊感とかは信じない。しかし、すみれは信用できる。一瞬考えてから答えた。

「それならば、明日が問題で、今夜ではないのではないか?
 今夜中に私が東京に戻れば大丈夫だろう」
「父の時、翌日の出張のことを私は知っていました。
 その出張のことを思った時、胸が痛みました」
「今、私が帰る時のことを思ったら胸が苦しくなったというのか?」
「はい」
「君が私のことを心配してくれるのはありがたい。
 君は本当に優しい女性だ」
「気になるので、少し帰る時間をズラすとか、何かできることはありませんか?」
「大丈夫だ、の運転は完璧だ。
 しかも、私は急いでいないので、無理な運転をさせることもない」
「分かりました。
 気を付けて戻ってください。
 来週はお買い物と六本木のあのお部屋ですね?」
「そうだ。
 変更があったら連絡する」
「はい、分かりました」
「大丈夫だ、安心して来週の買い物を楽しみにしていてくれ」
「ありがとうございます」

 秦は携帯電話で運転手の呉に下に降りていく旨を伝え、飯田にキスをした。飯田は珍しく秦の手を強く握った。

「お気をつけて」
「ありがとう、大丈夫だ」

 そう言って秦は玄関で靴を履き、靴ベラを飯田に渡し、もう一度キスをした。
 ギュッ。胸が痛いのではなく、乳房が強く握られたような感じだった。よく「心臓をぎゅっと掴まれる」と表現されるのとは少し違う感覚だ。
 秦が玄関の扉を開け、出て行こうとしていたが、飯田は秦の袖を掴んで放さなかった。秦は飯田の手を見つめた。

「大丈夫だ、君が心配するようなことはない」
「…」
「君が優しい女性だということをよく分かっている。
 私に対し、偏見なく付き合ってくれていることに感謝している。
 君には言えないが、私はこの国、君の国、で重要な仕事をしている。
 それでも君の国も美国アメリカも私の命を狙うようなことはないはずだ」
「分かりました」
「おやすみ。
 今夜はもう連絡をしないから、もう寝てくれ」
「はい、分かりました。
 おやすみなさい」

 秦はいつも丁寧だった。ドアは音もなく開いて、彼が出た後、音もなく閉まった。
 飯田は玄関のサンダルの上に立ち、手を伸ばしてドアの鍵を掛けた。
 どうぞご無事で…。

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