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月と六文銭・第四章(1)

 このミッションは祖国のため、大統領から直接指示されたもの。絶対に成功しなくてはいけないものだった。
 そして、自分と妹は成功した。北朝鮮の高官の暗殺は間違いなく成功した。
 しかし、それが問題ではない。私たち姉妹なら絶対狙撃は成功する。問題は生きて祖国の土が踏めるかだ…

~日本海の青い目~


 コードネーム・青い目パラン・ヌンは、自分が浮かんでいる海面からまっすぐ空を見上げていた。
 青から藍、そして漆黒へと変わりつつあった。この海流では北の方へ流されるだろう。
 以前観たボーンの映画では、主人公の米国特殊工作員・ボーンは漁船に助けられて南仏マルセイユに辿り着いた。
 しかし、自分が今漁船に助けられても、多分北朝鮮の船で、多分北朝鮮にそのまま連れて行かれるだろう。
 着ている服からして北朝鮮の人間ではないことがすぐに分かってしまう。早くこの潜水服を脱がないと…。

 薄れていく意識の中で青い目は思った。脱ぐことができたら、海水浴に来て流されたと嘘をついて、時間を稼ぐことができるのではないか。ミッションに使った装備は全部捨ててきたので、自分と結び付けられる証拠は何もないはずだ。
 どうして?チャックが上手く下げられない。手に力が入らない。服を着たまま10キロ近く泳ぐことができるよう訓練したはずだが…。想像していたよりも水温が低いのか、脱出の際に山を走り抜けた疲れのせいなのか。

 妹・緑の目ノクセク・ヌンは無事に回収されたらしい。少なくとも暮れていくこの海に漂流していることは確認できない。
 良かった。ノクセクは助かる。そう思った。
 彼女が帰還すれば、私たち姉妹がミッションに成功したことが報告される。祖国のために私たちが犠牲にしてきたことが報われる。
 良かった。私たちの祖国は生き延びる。そう思った。

 空はどんどん色が濃くなっていく。そして、自分の体が一瞬軽くなった気がしたが、そのまま意識が遠のいていくのを自分でも感じて、目の前は完全に漆黒となった。


 青い目が目を覚ましたのは病室だった。首を固定され、顔の所に空いた穴から床が見えていた。腕はベッドの横枠に固定され、背中に病院の強い照明の温かさが感じられた。足首も固定されている。若干足を広げられている気がした。
 照明が背中に当たっている感じからして、多分裸で、恥ずかしいところを見られているだろう。自分は北朝鮮に捕らわれて、体の隅々まで調べられたのだろうと思った。

 今後どのような拷問が待っているのか考えたら、あの時溺れて死んでしまった方が良かったのかもしれない。そんなことを思い始めた時、左腕にチクっと何か、多分注射針、が刺さるのを感じて、再び意識が遠のいていった。


 ソウルにある合同参謀本部での国防会議終了後、控室にいたパク(朴)教官に国防部のイ(李)将軍が話しかけた。

「パク教官、作戦は成功です。狙撃後、三男が二男派を粛清し、後継者の地位を固めました。
 我々の予想通り、二男・正男ションナンの後ろ盾、オウ書記を取り除き、二男派を弱体化し、三男派に決起を促したのが成功したわけです」
「ありがとうございます」
「君の大佐への昇進申請が出されている。すぐにでも決裁されるだろう。君はキム(金)スクールの校長を兼ね、引き続き優秀な狙撃手を育成してほしい」
「ありがとうございます。
 ところで、将軍、今後パランは?」
「あぁ、約束通り体調が戻り次第、米国への留学を許可し、最長6年は軍務を免除する。
 但し、重要案件が発生した時はこの限りではない。
 良いな?」
「は!本人も喜びます」
「パク教官、監視をつけるが問題はないか?」
「はい!
 誰をつけるのか聞いてもよろしいでしょうか?」
「作戦部長に人選は任せてあるが、パランが気が付かないようにしないとな」


 パクは誇らしかった。北朝鮮は早々と長男が後継競争から脱落していたが、党のナンバー2・オウ書記を後ろ盾にしていた二男・正男ションナンは、対米対南強硬派ですぐにでも38度停戦協定線での戦闘を再開すると公言していたが、三男・真男スンナンは現実的リーダーになると考えられていた。
 彼の後ろ盾のヂョン書記は先代書記長・正日ジョンイルの母方の一族で、国際事情によく通じた人物と目されていた。米国及び韓国政府は二男ではなく、三男が後継者となるシナリオを立て、二男の後ろ盾の黄書記を取り除いた。

 パクは軍の特殊部隊の射撃学校、通称キムスクールの教官を続け、韓国軍の秘密狙撃手とオリンピック選手を育てた。過去20年では東洋人唯一の射撃の金メダリストと2つの銀メダルを取った3人ともが彼の教え子だった。
 国内大会では警察学校とメダルを分け合っていたが、皮肉にも警察学校の射撃教官はパクの実の弟で、2人は父の教えに従い、国家に身を捧げ、軍と警察で特殊な人材を育て続けた。

 パクは我が子に韓国の今後20年間を安定させる作戦の尤も重要な役割を担わせ、成功した。しかし、可哀そうなことに、誰にもこのことを知らせることも出来ず、本人も一生誰にもそのことが言えず、軍の特級教官として勤務するか、全く無関係な民間人として生きていくしか道がないことも事実だった。
 国費留学などの恩典はあったものの、いわゆる表舞台で活躍することが許されない、そんな人生が待っていた。

 それに比べ、弟の子は五輪代表として過去2回の五輪に出場してスポットライトを浴びていた。我が子にはそんな機会は一生来ないと思うと不憫だったが、一生監視され、場合によっては追われる生活は親としては避けられるようにしてあげたかった…。


 パクの子、ジケ(智恵)は念願の米国留学の準備に忙しかった。自分で何を成し遂げたか知っていたが、それを国家からお金を引き出す材料にしようと思っていたわけではなかった。
 しかし、退院後、父にお願いしたら政府は海外留学を許可してくれて、行きたい学校の学費も渡航費も政府が出してくれることになった。学生ビザもあっさり発給され、ニューヨークの名門大学で学ぶ、とても恵まれた機会を得た。

 病院で目が覚めた時、自分は北朝鮮に捕らえられ、拷問を受けて殺されると思った。ところが韓国海軍の監視船が救命艇を発して、潜水部隊が自分を回収してくれていたのだ。ジケは彼らにお礼を言いたかったが、お互いに素性が分からない方が良いようだった。
 いや、もしかしたら、潜水部隊には誰を回収したのかさえ伝えられていなかったのかもしれない。それくらい今回の作戦は秘密裏に計画・実行され、国家の中枢の限られた人しか知らないものだったのだ。

 山の中を走り、崖から海に飛び込んだ時に折れた左大腿骨もきちんと元通りに治った。固定されている間は尻が半分見えていたことに不満もあったが、足を引きずる生活をせずに済んだので、結果オーライと割り切った。
 おでこの傷も韓国得意の美容整形で全く分からなくなっていた。父には、ついでにもう少し美人にしてくれたらよかったのに、と冗談を言った。
 

 なぜか東京・羽田空港経由でニューヨークに行くこととなり、金浦キンポ空港の縮小された国際便ターミナルの緑茶カフェでジケと父は向かい合っていた。

「とにかく勉強して、一人立ちしろ!」

 父はいつもの口癖を繰り返した。

「アパ(お父さん)、私は米国の大学を卒業して起業し、世界で活躍するつもりよ」

 ジケは米国留学の目標を口にして、父を安心させたかった。

 パクは我が子が一生政府や軍に監視されて生きていくのが可哀そうだから、一人立ちしろとしつこく言い、この半年間は時には厳しく指導し、時には大いに甘やかした。死地に娘を送り出す必要がないことを知っていたから、貴重な時間だったし、パク自身も楽しく過ごした。

 パクは送り出す先も安心できる先を選んだ。ニューヨークで教会のシスターをしているアレイア・ロジャーズにだいぶ前から連絡を取っていて、娘ジケのことをお願いしていた。
 ニューヨークのシスター・アレイエはパク自身が米国留学中にお世話になった米海兵隊狙撃学校のロジャーズ大佐の妹で、今回の事情を理解し、快くジケを預かってくれることになっていた。
 アレイユは韓国軍におけるジケの本当の役割は知らなかった。亡くなった兄の親友の子を預かって、英語を勉強させ、ビジネススクールをきちんと卒業するまで見届けるつもりだった。

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