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月と六文銭・第十九章(03)

 鄭衛桑間ていえいそうかん:鄭と衛は春秋時代の王朝の名。両国の音楽は淫らなものであったため、国が滅んだとされている。桑間は衛の濮水ぼくすいのほとりの地名のこと。いん紂王ちゅうおうの作った淫靡な音楽のことも指す。

 元アナウンサーの播本優香はりもと・ゆうかとの三回目の「デート」は、初めて会った品川でということになった。
 武田は播本が興味を持った寿司を食べようと品川で人気の鮨屋を予約した。播本も楽しみにしていたようで、朝から連絡が入った。


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 いよいよ品川デートだった。朝から楽しみだというラインが播本から届いた。

ゆーとたー:お仕事、行ってきます!
 夜が待ち遠しいです💖
 オフホワイトのワンピースに白ベースのパルフェージを
 準備しました👗
 武田さんが気に入ってくれるといいな🤔
tt:楽しみです
ゆーとたー:一応、完全に終わったみたいです🌜
 待ってくださってありがとうございます💦
tt:待たされたのはどっちですかね🤔
ゆーとたー:もう、意地悪なんだから💦
tt:それでは後ほど
ゆーとたー:ハイ😘

***
 職場での播本はテキパキと動き、同僚から後ろ指を指されることがないよう、懸命に働いた。自分から話さずとも、新入社員の噂を楽しむ連中は必ずいる。だからこそ、変なプライドを持たず、子供のために懸命に働いていた。そう、自分の幸せを犠牲にして。いや、子供のために犠牲にしているなんて言ったら、子供が問題の原因のようで、良くない。子供は大切な宝で自分の癒しだ。
 不幸な結婚に終わったのは自分と元夫の責任であって、子供の責任ではない。だから、寂しい思いや辛い思いをさせないためにも、私は頑張る。そう決めて、離婚し、神奈川に戻ってきた。神奈川や東京の方が就職の機会が多い。元夫の母は優しい方で、優しく接してくれたし、この子、自分にとっては孫、を大切に扱ってくれた。それも振り切って実家に戻ったのだから、頼れるのは自分と自分の両親だけ。
 優香は両親にすごく感謝していた。子供のために頑張っている自分を応援してくれている。そもそも結婚に100パーセント賛成だったわけではない両親だったが、実家に戻ってきたからと言って、親は「そら見たことか」とは決して言わず、温かく播本と孫を迎えていた。
 だからと言って、頼り切っていいというわけではないが、播本は両親にどうしても一つだけわがままをお願いした。

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 それは週に6時間だけ自分の時間が欲しいと言うものだった。両親と言えど、その6時間の間、どこで、誰と、何をしていたのか、問わないこと。ママではなく、女としての時間を少しだけ持たせてほしい。それ以外の週162時間は子供のために頑張るからと涙を流し、手をついて両親に懇願した。
 両親は育児ストレスの発散のため、どうせ映画を観るとか、大学の同級生と女子会で飲んで騒いでストレスを発散するのだろうと思っていた。実際、初めはそうだった。映画を観たり、ブティック街を覗いたり、居酒屋で同級生と騒いだりした。
 きわどいところでは学生時代からぶっ飛んだ行動を取る朱里あかりとホストクラブに行ったりもした。一度は気に入ったホストに抱かれて"セックス最高!"と思ったこともあったし、別の時は朱里と彼女の担当ホストと3人で3Pも経験した。
 子供のために忙しく働き、自分のための時間がないと思い込んでいた。一時は自分の肉欲が抑え込まれていることが精神のバランスを崩す原因になっていると思っていたが、数秒、数分、長くても30分にも満たない快楽が自分の悩みを解決してくれないことを確認した。やはり自分は女としての幸せを充実させることによって、自分と家族が健全に健康に幸福を追求できるのだと分かったのだ。

 そんな時に、「あの人はどうしているのかしら?」と思い出したのが、就職活動している時に行った会社説明会の講演者であり、その会社の選考の面接官でもあった武田だった。単なる面接の枠を超えて、深みのある知識と優しい話し方、説得力が印象に残っていた。自分を精神的にも肉体的にもさらなる高みに連れて行ってくれるのではないか。そんな気がしたから、厚かましくも一方的に連絡を取り、一方的に自分の生活に巻き込んだ。

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 これまでは食事だけを共にしたが、ウィットとユーモアがあり、思慮深いが堅物ではなく、清濁併せ呑むこともできる男性に思われた。今夜は初めて彼と結ばれる。いい年して今夜のセックスへの期待に心も体もかなり興奮している。やはり自分は性欲が強く、それが頑張る原動力になっていることは間違いないが、彼に抱かれて、それが落ち着くのではないかとの期待もあった。

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 武田は東海道線で品川に向かって移動していた。

<さて、品川駅だ。元アナウンサー・播本優香とのデートだ。一応、駅に到着した旨を連絡しておくか>

 携帯電話を上着の内ポケットから取り出そうと思った瞬間、武田の目に興味深いポスターが貼ってあるのが見えた。

<お、面白いイベントをやっているらしい。待ち合わせ時刻まで少し時間があるな。ちょっと覗いてみよう。ついでに何かいいものがあったら買っておこう>

 武田は"転売ヤー"ではないので、営利目的で購入することはないが、今の部屋に物を置いておくことも正直難しいのは分かっていた。

<買ってから悩もう!>

 チーン♪
 エレベーターが3階のイベントフロアに着いた。プラトレーンの限定版新幹線セットは鉄道開業150周年を記念して、今後数年間、毎年幾つかの組合せが販売されることになっていた。今年は「ゼロ」系と700A「のぞみ」の組合せだ。のぞみか。武田はニンマリした。これを書棚に飾っておいても電車に疎いのぞみは「フーン」と言って興味を示さないまま終わってしまうかもしれないが、自分としては面白そうだ。

 そろそろ連絡を入れようかと思って携帯電話を取り出したところに播本優香からのメッセージが届いた。

ゆーとたー:ごめんなさい、子供が欲しがっていた
 プラトレーンの発売日なの。
 港南口のポップアップストアで一つ購入
 したいので、少し待ってもらえますか。

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 やはりこのイベントか、と武田は思った。播本と一緒に写っている子供は男の子で名前は分からなかったが「たー」と呼ばれているらしい。

tt:それ知ってます!
 私も行こうかな(^▽^)/
ゆーとたー:恥ずかしいですから、レストランの前で
 待っていてください。すぐに行きますから。

 さて、ここで何と言おうか一瞬迷った武田だったが、ダメと返信した。

tt:ダメです
ゆーとたー:え、待っていただけないのですか?
tt:実は私も興味があって、今
 ポップアップストアの前にいまーす(笑)
ゆーとたー:え、ずるーい!(笑)

 何が「ずるい」のかは不明だが、若い人はよくこの表現を使う。

tt:早くきてください。
ゆーとたー:すぐ行きます💦
tt:お待ちしています。

 播本優香は子供のためにプラトレーンの限定版『新幹線セット』を購入するつもりでいた。

 チーン♪
 エレベーターが3階のイベントフロアに着いた。播本はエレベーターを出るなり左右を見渡し、目玉の『鉄道開業記念コーナー』へと向かった。
 空っぽの棚には『本日分・売切れ』との張り紙が…。
 播本の表情に失望の色が出ていた。子供に「今日、買ってくるよ」と約束して、朝出てきたのだ。そうでも言わないと品川に行く理由が成り立たないのだろう。夜まで家を空けるには、子供には欲しいものを買ってくる、子供の面倒を見てくれている両親には子供のための買い物をしてくるのと自分の時間を組み合わせると告げてきたのだろうか。
 しかし、買い物が上手くいかなかったら、子供と夜ご飯を一緒に食べられなかった理由が成り立たない。買い物が上手くいかなかったけど、自分はしっかり男と過ごしてきたのかと両親は思うだろう。自分を批判をしない約束だが、子供を大切にするための自分の精神のバランスの調整のはずが、自分の欲求を優先したと取られたら悲しいし辛い。

「播本さん!」

 武田には播本が少し落ち込んでいるように見えた。

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