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かみしんにて

五月に引越しをして以来であろうか、上新庄駅に降り立った。常々再訪を考えていた小町書店へ。過日と同様、文庫本を漁る。この古書店と旧居近くの三番館なる喫茶店とが、この地での生活を占めていたんだっけ。友人と何度か行った居酒屋なり温泉施設なりも含めて、自宅と駅とを結ぶ線上において完結していたという訳である。そんな半年であった。

この日は幸い三番館まで歩む気力が無かったから、買った本を鞄へ詰め込み駅構内の喫茶店へと。中山義秀の『厚物咲/碑』を、言うなれば"人生"を読む。

幼い頃、自身はどんな子供だったろうか。この地のあれこれよりもうんと遡った、かつての生活に思いを馳せる。小学校に通っていた頃より「人と」と一概にいうより、周囲の仲が良かった連中とは"違って"いた。皆が持っている所謂ゲーム機の類は与えられず、夜も八時には床に入っていたから話題のテレビ番組の会話には基本ついていけない、そんな具合であった。

スポーツの少年団に入っていたから、それらのことで別段気を病むことは無かったけれど、中・高を顧みてみると、確かに周囲の友人らと異なる点は少なからずあった。そんなこんなが自己認識となるのが大学生活であるのだが一一 ここらで止しておこう。

私は、自分が生きてきたっていう事実と、和解できそうなのよ。たとえ私の絵が屋根裏で忘れられても、私がいた´ ´ ことが忘れられても、私が私であったということの方が、かけがえなく貴重なことに見えてくるのよ。

辻邦生『廻廊にて』

軽く振り返ってみるだけでもいろいろと繋がりが見えるのだから面白い。人生と自身との和解、とまでは行かずとも、両者は何処かで折り合いのつくものなのであろうか。つけるべきなのであろうか。少なくとも今は考える時分ではなかろう...

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