旅の始まり

 佐伯誠さんの文章を最初に読んだのはいつだったろうか。まず頭に浮かぶのは『翼の王国』の連載「bon bon voyage」だ。時期が同じだったかは別にして、他に確か『HI FASHION』でも連載を持たれていたはずである。でも、その前に何か別の雑誌で名前を見かけたような気がしないでもない。

 ぼくは粕谷誠一郎さんが編集長だった時代の『翼の王国』が大好きだったのだけれど、その最大の理由は佐伯さんの文章が読めるからだった。選び抜かれた言葉はどれも格調が高いのに、全体としていい具合に力の抜けた雰囲気があり、誰とも似ていない。と書きながら、佐伯さんの連載ですぐに思い出せるのは「kate spade」のポスターについて書かれた回のみだ(それがきっかけのひとつになって、ぼくは『relax』という雑誌でこのブランドの、というよりもケイト・スペードと彼女の夫であるアンディ・スペードの特集を組んだことがある)。佐伯さんの文章を読んでいると、いつも凪いだ海にプカプカと浮かびながら空を仰いでいるような気持ちになる。連載のほとんどを憶えていないことの理由は、それにしておこう。

 はじめて佐伯さんご本人にお会いしたのは、京橋の〈POSTALCO〉だった。現在のお店ではなく、そこに移る前の、古いビルの4階にあった頃、彫刻家の掛井五郎の展示が店舗内であり、レセプションでマイク・エーブルソンが佐伯さんを紹介してくれた。ショートパンツで素足にスリッポンだったという記憶があるが、それは別の機会にあった時の御姿とごっちゃになっているかもしれない。とにかく憧れの文筆家にようやく会うことができたという感激で舞い上がってしまい、どんな会話をしたのかまるで憶えていない。マイクといえば、彼が代々木上原〈MDSギャラリー〉ではじめての個展を開催した時にぼくは彼に会っているが、どういう流れだったのか佐伯誠さんの話になり、マイクが「いまから佐伯さんとお茶を飲む約束をしているんだけど、一緒に行く?」と誘われて、断ったことがある。あまりに尊敬しているので、心の準備無しに会ったらたぶん一言も発することができないだろうと思ったからだ。

 ネットで佐伯さんを検索すると、詳しい経歴のわからない「謎の人物」とされているようだ。ぼくにとっても、ゆっくり二人で話す機会が未だにないままだから、ずうっと謎なのである。ただ、ときどき思いもしないタイミングでお名前を耳にするだけだ。例えば小さなギャラリーでロベール・クートラスの展示を観た時だったり、昼ごはんを食べに近所のおむすび屋に入った時だったり、ポスタルコに関連するイベントの場だったり。ただ目にする機会は少ないけれど、佐伯さんの描く文章は、はじめて読んだ時と変わらず高潔で、ぼくの憧れの対象であり続けている。

 先週のはじめに事務所に封書が届いていた。見覚えのある筆で書いたような文字。裏返すまでもなく佐伯さんからのものだとわかる。封を切ると、若い人に知ってもらいたくてこんなものをつくったという手紙とともに『KAKEI Journal 第1号』という、ポスターを八つ折りにした印刷物が入っていた。表面はアトリエで撮影された彫刻家・掛井五郎のポートレイト、裏面は佐伯さんによる「マエストロの手は止まらない」という文章。当然ながら素晴らしい内容だ。何か作品を観て感動した時、このように表現できたら最高だなと思うようなテキスト。佐伯さんがまた動き出した。いや、ずうっと動いているのに、ぼくがそれを感知できていないだけかもしれない。とにかくぼくはまず、掛井五郎の展示を観るべく、次の日に松濤の〈ギャラリーTOM〉に向かって走った。

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