必要なもののヒエラルキーについて

 久しぶりにマイク・エーブルソンに会った。年に何度か、マイクと話がしたくなる時があって、唐突に「時間ある?」とメールすると、なんとかスケジュールを調整してくれているのだろうけれど、すぐに一緒にコーヒーを飲むことになる。いつもは渋谷か原宿。でも今日は恵比寿。コーヒーを飲んでいるうちに酒が恋しくなったら、おいしい自然派のワインが飲める店がある(マイクは自転車で行くと言っていたので、たぶん飲まないだろうが)。

 急にマイクに会いたくなったのは、掛井五郎について話したかったからで、それはぼくが不定期に発行している『ART FOR ALL』というフリーペーパーのために、2010年におこなったインタビューの続きのようなものである。ぼくはつい先日、とうとう掛井五郎の小さな彫刻を買ってしまった。最初に〈ギャラリーTOM〉の展示を観た日、これなら自分にも手が届きそうだという彫刻があった。でも踏ん切りがつかなかったので、諦めて家に帰った。それからカミさんと旅に出て、旅先で食事をしながらその話をしたら「そんなに気に入ったのに買わないなんて信じられない」と叱咤された。でも、もう時間も経っているしもう売れてしまっているよと、ぼくはまだ自分の欲望を抑えつけるような答えを口にした。東京に戻ってすぐに〈ギャラリーTOM〉へ走る。恐る恐る中に入ると、お目当ての彫刻は前に観た場所にそのまま展示されていた。そんな経緯をマイクに報告し、あらためて「どうして人はアートを買うのか」について語り合いたいと思った。前のインタビューで、マイクはこんふうに話している。

「必要なものは、みんな同じくらい必要なわけじゃないでしょう。(メモを見せながら)ニーズはこういうピラミッド型になっていて、いちばん必要なものは下のほう。食べ物とか愛情とかいろいろあると思うんだ。それでね、買い物をするときには “機能” が重要なんだよ。(中略)それでニーズとして優先されるんだと思う。でも、ぼくにとってはアートにも機能がある。無駄とか贅沢とかじゃなくて “必要” なんだよね」

 マイクは、その時と似ているようで、微妙にニュアンスの違う話をした。いや、同じことを言っているのに、聞き手であるぼくがあの時とは違う考えを持っているから、そう響いたのかもしれない。掛井五郎の作品は「言うべきことを言っていない」と彼は言うのだ。もちろん批判ではない。マイクは、自分はアートスクールでファインアートを学んだから、アート制作にはまずコンセプトが大切だと、つい考えてしまうらしい。何を伝えたくてそんなことをするのか。その部分が掛井五郎の作品からは感じられない。でも掛井五郎の作品を何点か所有して、一緒に暮らす中で得たものがあると、マイクは続けた。それは何? 「説明する必要はない、ただ好きと言っていいということだよ」。

 ところで、いつもぼくらの会話は英語と日本語のちゃんぽんで進む。お互いがお互いの母国語以外の言葉で説明しきれなくなると、英語が日本語に、日本語が英語に戻ってしまう。「でもどっちかで話し続けないと、途中でわからなくなるんだ。英語と日本語を途中で切り替えると、ひとつの頭の中でうまく理解できなくなる」。もちろんぼくもそう思う。パーフェクトに英語を操れたらぼくもそうしたい。でも、なんとか相手の母国語で説明しようとする行為は、それはそれでなかなか面白い。自分も言い方を考えるし、マイクも考えているはずだ。だからその後でした、柳宗悦と民藝運動とウィリアム・モリスの話がとても楽しかった。気づくとマイクはハーブティーに切り替えている。ぼくはもちろんワインを頼んだ。

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