美しいものへ続くドアはひとつではない

 2月15日金曜日のこと(わざわざ日付を記すのは、もちろんそこが大事だからなのだけれど)、事務所の近くで昼ごはんを食べようと〈Pho321〉に入ると、アンリ・サルヴァドールの「Jazz Méditerranée」が流れていた。前日に友人と二人でアンリを偲ぶ会をやったばかりだったので、思わず店のスタッフ・アサミちゃんに「一昨日がアンリ・サルバドールの命日だったから?」と尋ねると、キョトンとした顔をしながら「ケレン・アンが好きで、それでサルヴァドールのことを知りました」と言う。

 アンリ・サルヴァドールが亡くなったのは2008年2月13日だ。享年90歳。ケレン・アンのファーストアルバムに収められた「Jardin d’hiver」を、アンリが歌って大ヒットし、ほぼ隠遁生活を送っていた彼の大復活劇のきっかけになったのは2000年である。アンリ版の「Jardin d'hiver」を収録したアルバム『Chmbre Avec Vue(サルヴァドールからの手紙)』のプロデューサーは、ケレン・アンと当時の彼女の恋人だったバンジャマン・ビオレ。アサミちゃんがアンリを知ったのは、きっとこの頃なのだと思う。

 隠遁生活とはいえ、それまでに作曲した数々のヒットソングがあったから、生活が困窮するようなことはなかったろうし、むしろ日がな一日、大好きなペタンクに興じ、南仏の陽光が降り注ぐ別荘のベランダで好きなだけ昼寝をしていたはずだ。だから復活がないまま天国に召されたとしても、アンリにとっては幸せな一生だったことに変わりはなかったに違いない。

 かつて小野郁夫という名前で編集していた『VISAGE』という雑誌は1990年に発行された第5号が最終号だった。実はそれから何年かして、第6号を発行すべく動いていた時期がある。特集のテーマは「ぼくのお祖父さん」だった。大復活を果たす前の、その予兆すらなかったあの時期のアンリ・サルヴァドールをメインにするつもりで、パリに住んでいる友人にお願いしてアンリにインタビューしてもらい、別の友人にはポートレイトの撮影を依頼した。ファックスで送られてきたインタビュー原稿が出てこないので、記憶を手繰り寄せるしかないのだけれど、その時のアンリは「ショービジネスの世界に戻る気はさらさらないよ。いまのわたしは充分すぎるほど幸せだからね」と答えていたはずだ。

 あの第6号は絶対に完成させておくべきだったと久しぶりに思ったのは、佐伯誠さんから届いた書簡に『KAKEI Journal 第1号』とともに封入された、『Bonjour, Monsieur souriant』という小冊子を読んだからである。ある映画字幕翻訳家の101歳の誕生日祝いに作ったものだと、手紙には書いてあった。加藤周一や中村真一郎と親友だったという、この老翻訳家と佐伯さんは、日を決めてこれまで何度も会っているのだそうだ。自己顕示がちらりとでも入り込む隙のない、完全に純粋な思いだけを携えて。

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