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韓国の旅 #16


釜山「国際市場」の旅           2015年

 夫婦で行く釜山は、2015年が6回目だった。その前年に行った時、もう釜山はこれでいいだろうと私は思っていたのだが、韓国の大ヒット映画「国際市場」(日本での題名は「国際市場で逢いましょう」)を見て、またまた釜山へ行きたくなった。ちょうど、格好のガイドブックもあった。旅行作家・鄭銀淑さんが、この映画に触発されて書いたという、「釜山の人情食堂」という文庫本だ。この本をバッグに入れて、いつものように博多国際港から高速艇で釜山港へ向かった。

 博多国際港を出発した高速艇KOBEE号は、いつものように、3時間ほどの航海で、何事もなく、釜山の国際フェリーターミナルに到着した。いつもと違っていたのは、日本人の乗船客が少なかったことと、フェリーターミナルが新しくなっていたことである。実は、前年の10月に釜山を訪れた時に、新しいターミナルの建物が出来ているのに気づいて、いつオープンするのか気になっていたのだが、その後なにも報道がなく、私たちが旅行に出発する一週間前になって突然、新ターミナルがオープンしたので到着港が変わると旅行会社から知らせがあった。

 新しいフェリーターミナルは、釜山駅の裏手の埋め立て地にできた。何度も釜山に来ている私たちは、まだこの辺りが埋め立て工事中だった頃から知っている。旅行会社の担当者は、今までの二倍の広さになったと家内に言ったようだが、実際に見た私の感覚では、前のターミナルの5倍くらいはありそうな広さだった。待合所においてあったリーフレットによると、関釜フェリークラスの大型船が6隻、私たちが乗って来た高速艇が8隻、合計14隻が同時に停泊できるようになるということだ。また、ターミナルの横の埋め立て地には、将来、高層ビルが林立し、ヨットハーバーもある湾岸新都心になるという。大都市、釜山はますますダイナミックに変貌しそうだ。大阪なんか、とっくに置いていかれている。今回は、まだオープンしたばかりなので、新ターミナルには未入居の店舗もあって閑散とした印象だったが、何年かしたら、賑やかな場所になるだろう。

 入国手続きを終えてフェリーターミナルを出たのは、午後6時半頃だった。博多港を出たのが午後3時だから順調。ターミナルから釜山駅まで歩いた。すぐ目の前に見えているのだが、キャリーバッグをひきずって歩くのは思ったよりも大変だった。出来たばかりなのに歩道の敷石が波打っているのは、いかにも韓国風だ。ようやく釜山駅に着いた私たちは、そのまま駅を通り過ぎて、地下鉄で南浦へ向かった。今回のホテルは釜山駅の横ではなく南浦にあった。釜山有数の繁華街である光復路に面したビルの上層階にある「AVENTREE」というビジネスホテルだ。小さいけれど、近代的な設備の整ったホテルだった。でも、私たちが泊まった部屋からは、外の景色が見えなかった。まっ、宿泊料が安いから仕方ないか。その夜の食事は、ホテルの近所で適当に見つけた店に入り、「カルビタン」を食べ、しばらくBIFF広場辺りを散歩してから、早めにホテルに戻ることにした。毎晩が夜市のような一帯はとても魅力的なのだが、本格的な釜山散策は翌日から。


 翌朝の朝食はホテルで済ませた。小さなビジネスホテルなので、一流ホテル並みとは言えないが、ちゃんとしたビュッフェだった。客にはイスラム系の東南アジア人が多数いた。観光ではなくビジネスのようだ。日本人の姿はほんの少し。これもビジネス客風だった。遊びに来ているのは私たちだけかな。朝食後、いよいよ「国際市場」をめぐる旅の開始だ。その前に、映画の説明をしておいた方がいいだろう。韓国で歴代2位の観客動員を記録した映画「国際市場」は、朝鮮戦争(韓国では「韓国戦争」あるいは「6・25」ユギオと呼ぶ。)で家族バラバラとなった、ある釜山の家族の戦後の物語だ。中国人民軍の参戦によって追い詰められた米軍は半島北部の興南港から撤収するが、その時に多くの韓国人避難民も収容して釜山をめざした。この映画の主人公ドクスの家族もその中にいた。しかし、乗船時の混乱の中で末の妹が行方不明となり、彼女を捜すために、父親は軍艦を降りた。その時から、まだ幼い長男ドクスは、一家の家長になった。別れるときに父親がドクスに告げたのは、釜山の国際市場にいる妹(ドクスにとっては叔母さん)のところへ行くこと。自分はドクスの妹を見つけて、きっと後から行くということだった。その後、この映画の舞台は、ドクスの成長とともに、国際市場やその周辺から、家族を支えるために出稼ぎに出たドイツの炭坑、ベトナムの戦地へと広がるが、ドクスはいつも父との約束の地であり、自分の家族の住む地である国際市場へ帰ってくる。映画の最後近くには、南北離散家族の捜査によって、アメリカに養女に出されていた行方不明の妹との奇跡の再会という感動的な場面もあるが、とうとう、北朝鮮の地に残った父親との再会はできなかった。年老いたドクスと、ドイツで知り合った韓国人のその妻は、すっかり発展した釜山の港を見下ろしながら懐旧にふけるのだった。

 この日、私たちが目指したのは、この老夫婦が見下ろした釜山港の風景だった。この映画のロケ現場へ行くのだ。それも徒歩で。聖地巡礼というやつですね。道案内は「釜山の人情食堂」だった。ホテルを出てBIFF広場を通って広い九徳路へ出、西へ歩いて地下鉄チャガルチ駅を越えた辺りで左折すると忠武大路に入る。しばらく歩くと、忠武洞市場のタワー型ゲートが見えてきた。市場に入ると正面に虹色に彩色された五十階段が目に入る。その階段を上がって、さらに上へ上へと歩く。まるで尾道のような地形だった。尾道よりも路地は更に狭い。お年寄りはどうして生活しているんだろう。朝鮮戦争の避難民たちは、山の上へ上へとバラックのような建物をたてて住み着いた。これらの家々はその名残なのだろう。韓国では、こんな山の傾斜地の町をタルドンネ(月の街)と呼ぶそうだ。釜山にはたくさんのタルドンネがある。まるで山登りをしたように足腰が疲れ切った頃、ようやく目的地の「日の出通り」に辿り着いた。ここにある草場中学校の向かいあたりにある家の屋上が映画の撮影ポイントだ。でも残念ながら、その建物そのものは見つからなかった。案内看板でも出ていると期待していたのだが、どうやら観光地にはなっていないようだ。撮影場所は個人の家らしいから、仕方ない。でも、一応は、映画の風景に似た角度から釜山港を見下ろすことができた。やっぱり、尾道に似た景色だった。

 帰り道は、庶民の街釜山の匂いをたっぷりと味わう道中になった。忠武洞市場から忠武海岸朝市通りを経てチャガルチ市場に至る海岸べりの道は、野菜市場から魚市場へと、実に活気に満ちた市場が延々と続く。その賑やかさには圧倒された。釜山のおじさんやおばさん達は、今日もたくましく生活しているようだ。歩きくたびれたので、チャガルチから地下鉄に乗って、一駅先の南浦で降りた。充分歩ける距離だし、ホテルに戻って休憩するのならチャガルチ駅の方が近かったと気づいた時にはもう南浦駅に着いていた。仕方なく、ホテルには戻らずに光復路の喫茶店で休憩することにした。家内は行きたいパッピンスの店があったようだが、見つからなかったので、以前ソウルの仁寺洞で入ったことがある有名な店、「オスロック」(韓国式発音だと、「オソルロ」)に入った。ここは緑茶カフェとして知られた店だ。家内は抹茶かき氷、私は抹茶ラテを頼んだ。まだ朝早いせいか、客は私たち二人だけだった。光復路にも、ほとんど人通りがない。この辺りは午後から夜遅くにかけてが本番なのだろう。

 30分以上休憩しただろうか、ようやく元気が戻って来たところで、次の行動にかかった。めざすは南浦の「ロッテ・モール」。目的は買い物ではない。屋上から橋を見物するのだ。鄭銀淑さんの「釜山の人情食堂」を読んで、影島大橋が跳ね橋で、それが毎日正午に開閉することを知ったので、ぜひともその光景を見たいと思った。影島大橋というのは、南浦と対岸の影島を結ぶ、二本ある大きな橋のひとつだ。影島は、尾道でいうと向島にあたる。尾道では風情のあるフェリーが橋の替わりをしているが、日本の植民地時代に、南浦やチャガルチ一帯の海岸べりが埋め立てられたことによって、島と本土との距離が近くなり、橋で結ばれるようになった。そのひとつ、影島大橋が跳ね橋だったわけだ。もちろん、船の航行の便のためだったわけだが、航路が変わって必要がなくなり、長らく橋は跳ね上がることがなくなっていたのを、2013年に復活させた。観光目的だと思われる。建設当初は1日7回もあがったそうだが、復活後は正午の一回だけ(もうすぐ夜も含めて、回数が増えるそうだ。)だが、早くも観光名所になっているようで、その狙いは当たった。(東京の勝鬨橋も復活すればいいかも。)

 橋の開閉を見物する絶好のポイントが、ロッテ・モールの屋上だった。屋上のすぐ下が影島大橋だ。私たちは20分ほど前に屋上に上がり、橋が上がるのを待った。すでに橋のたもとの広場には見物人が多数集まっている。この屋上にも人が集まってきた。そして、いよいよ正午。車が止められ、踏切の棒が下がった後、鉄骨製のガードが完全に交通を遮断してから、ゆっくりと南浦側の橋が持ち上がる。見物のために橋の上で待機していた車が踏切棒の前まで車を移動させ、運転手らが降りてきた。橋が上がると、それをバックに一斉に橋上で記念撮影を始める。なるほど、そんな見物方法もあるんですね。上から見たのでよくわからなかったが、橋はそんなに高くは上がらないようだ。上がり始めてから停止するまで10分間ほどだった。理屈を言えば、下ろすのにも10分かかるわけだから、車の通行停止は合計して最低でも20分以上はかかるわけだ。影島と本土を結ぶ橋はもう一本あるとは言え、大変だ。でも、開かずの踏切なんてことを考えれば、この程度の我慢は何でもないのかもしれない。

 せっかくロッテ・モールに来たので、この日の昼食は、ここのレストラン街で済ますことにした。有名な店が揃っているので安心だ。私たちが入ったのは、「トゥヒャン」という、豆腐料理の店だった。たぶん、以前にも入ったことがある店だ。頼んだのは、豆腐や豚肉を葉っぱに巻いて食べるポッサム定食。これなら糖尿病の私も大丈夫。おいしい昼食だった。なお、南浦のロッテ・モールというと、高層ホテルが建つ予定で、前年来た時には、今度釜山に来るときにはホテルが出来ているだろうなと期待していたのだが、どうやら予定が変わったようで、ホテルの完成は、2019年だそうだ。ロッテグループには、例の相続騒ぎもあったし、新国際旅客ターミナルの横の埋め立て地の開発にもからんでいるようなので、果たして今回こそ予定通り行くのだろうか。ソウルの555メートルの超高層ビルも問題だらけだし。(2021年の註:ソウルの高層ビルは無事にオープンしたが、釜山南浦の高層ホテルは、まだ未完成のようだ。それとも、もう出来たのかな。2015年を最後に釜山に行っていないので、未確認です。)

 昼食後に、その影島大橋を渡ってバスで向かったのは、影島にある「韓国海洋大学校」と、その近くにある「国立海洋博物館」だった。海洋大学は、「国際市場」の主人公ドクスが入学試験に合格したのに、弟の進学資金や妹の結婚資金の面倒を見るという、家長としての責任を果たすために、結局は進学できなかった大学だった。ここは海に生きることをめざす、韓国のエリートが集まる大学だ。大学そのものは、陸と道路で繋がった沖の小島にあるので、キャンパス内には入れなかったが、その校門付近で記念撮影をした。キャンパスの全容は、その後、海洋博物館から望むことがでた。何棟もの校舎が建ち並び、立派な白い練習船が二隻、停泊していた。

 大学からバス停を一つ分戻ったところに「海洋博物館」があった。ここは、船で釜山港に入る直前に左舷に見える宇宙船のような建物で、以前から気になっていたところだ。実際に来てみると、平日のせいか、やや閑散とした雰囲気だったが、とても巨大で立派な施設だった。しかも、入場無料。中には、小さな子供用の水族館や海に関する資料の展示がある。朝鮮通信使の船の、かなり大きな縮小復元模型の展示もあった。立体映像の劇場もある。その他、海に関して様々な知識が得られて、子供達の校外学習の場としては絶好だろう。海沿いに広いカフェがあり、窓から、海洋大学のキャンパスを含む、港に出入りする船と島影の、素晴らしい景色を堪能することができた。

 再びバスで南浦へ戻った。いよいよ「国際市場」そのものへ向かう。ここには、映画に登場する「コップニネ」(コップンの店)がある。もちろん、映画がここで撮影されたわけではないが、ドクスの店のモデルになった店で、店名も同じだ。鄭銀淑さんの本によると、映画がヒットした後は、土日ともなると、誘導員が出て交通整理するほどの人気だったようだが、それからだいぶ時間が経った現在では、ほとんど店の前で立ち止まる人もいなかった。というわけで、店の前で記念撮影。鄭さんによると、国際市場というのは、もともと南浦一帯に住んでいた日本人たちが敗戦後に日本に引き揚げる時に残していった様々な物や、連合軍の物資の横流し品などを売買する場所として発展したそうだ。隣の富平市場が植民地時代からあったのと比較すると歴史は新しいわけだが、戦後の混乱期を生き抜いた、数え切れないドクス達の涙と汗が染みついた市場なのだ。

 この日の夕食は、ホテルのすぐ裏にある「クンチプ」という店でとった。私が頼んだのは、韓国焼酎と海鮮パジョン。釜山で食べるパジョンは格別だ。量もたっぷり。一人では食べきれないほどだった。旅行中の私たちは、昼間は、多いときは1日2万歩以上も歩き回るが、夜遊びはせず、夜は大人しくホテルで休むことにしている。体力がもたない。というわけで、夜は韓国のテレビ番組をゆっくりと見ることになる。この日は9月3日だった。テレビのニュース番組は、中国の抗日70周年式典と軍事パレードに出席した朴槿恵大統領のことで持ちきりだった。何をしゃべっているのかわからないが、席次や、大統領のサングラスのことを話題にしていたようだ。この式典には、安倍首相も参加を検討していたようだが、アメリカに止められたのだろうか、結局は参加しなかった。日本のマスコミは、(たぶん)アメリカの反対を押し切って出席した朴大統領に批判的な論調だったと思う。それが、まるでアメリカに反抗したら後が怖いよと言っているようで、いかにも、アメリカの意向を忖度するだけの、現在の情けない日本の状況そのものを表していた。韓国は韓国独自の判断で、アメリカとも中国とも交際すればよいのだ。それが失敗したら、責任は韓国人がとる。それだけのことだ。日本は中国とまともに話し合わず、アメリカの背中に隠れることだけを考えている。などと賢そうなことを言いながら、この夜、私が見たのは韓国のニュース番組だけではなかった。海外では見られないと思っていた日本のサッカーの試合を見ることができたのだ。W杯二次予選の対カンボジア戦だった。日本は相変わらずの拙攻で、弱い相手に3点しかとれずにイライラが募ったが、その直後に別のチャンネルで見た韓国対ラオスの試合で、韓国が8−0で勝ったのを見て、イライラは更につのった。二つの試合を続けて見られたのは、この夜、韓国にいたおかげだが、おかげで不機嫌な気分になってしまった。日本のサッカーはどうなるんだろう?(次のアフガニスタン戦で、香川が活躍して6−0で勝ったので、少し気が晴れましたが。)

 さて、翌朝になった。今回の釜山旅行は二泊の予定なので、もう昼過ぎにはフェリー・ターミナルに行かなければならない。朝食を済ませた私たちは、ホテルをチェックアウトする前に、南浦洞近辺を散歩することにした。向かったのは、昨日、ロッテモールの屋上から見下ろした、影島大橋のたもとだった。これも鄭さんの本に教えられてのことだった。ここにあるチャガルチ乾魚物市場は、植民地時代以来の古い日本家屋が今も残る一画なのだ。中に入ってみるとなるほど、屋根瓦の建物が軒を並べていた。とても懐かしい気分だ。橋のたもとに、古い日本家屋風の建物が一軒だけ残っていた。これも鄭さんの本によると、「ヨンドタリ占い横丁」の最後の一軒なのだった。朝鮮戦争で家族と離ればなれになった人達は、ヨンドタリ(影島橋)で会うことを合い言葉にしていたそうだ。だから、この周辺には避難民が多く集まった。各種の占い屋は、そんな人達をめあてに次々と店を出していったそうだ。今では、あたりは再開発されて、きれいな海辺の広場や散歩道になった。私たちも、この気持ちの良い散歩道を、チャガルチ市場の方へと歩いた。

 新しい建物になってからのチャガルチ市場の内側に、夫婦で入るのは初めだった。あまりに観光地ぽくて敬遠していたのだが、この日は、朝早いせいか、ほとんど観光客の姿を見なかった。でも、建物の外の露店は、地元の買い物客が多くて、とても賑わっていた。釜山は、やはり海の街だ。潮風と魚の臭いが似合う。ホテルをチェックアウトした私たちは、地下鉄で釜山駅に向かった。釜山駅から新しいフェリー・ターミナルへの交通手段がよくわからなかったのだが、結局、駅の裏からバスが出ていることがわかった。バスに乗ると、来る時に歩いて10分以上かかったところが、ほんの数分で着いてしまった。ターミナル内に一軒だけある、社員食堂みたいな「専門食堂」で豆腐チゲなどを食べた後、構内のコーヒーショップに入ったりしたが、出来たばかりのターミナルには、ほとんど見るべき物がなく、仕方なく、本を読んだりしながら出港の時間を待った。次に来る時には、もう少し店舗やアミューズメント施設が充実していて欲しいものだ。というわけで、今回の、「国際市場」をめぐる、短い釜山旅行は終了。鄭銀淑さんの本に頼りきっての旅行だった。おかげで、西面にも海雲台にもセンタムシティにも行かず。海洋博物館は別として、大都会釜山の新しい面は見ずに、古く懐かしい場所だけを見る旅だった。それもまた良し。 

     
     

     

     


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