マンマのさんま Mk-2

マンマのさんま Mk-2

最近の記事

「自分のため」にやるとは?ー『ピンポン』から探る喜びの原点ー

はじめに 人間、何だって何時だって自分が喜んだり楽しんだりした時は、それを直接感じ取ることが出来る。また、直接感じ取れたことを言葉にし、お互いに伝えあうことも出来る。それ故に我々は、他人・共同体の喜びのために何かすることも出来るし、単純に自分の喜びのために何かすることも出来る。なので日頃我々は、時と場合に応じて「他人・共同体のため」と「自分のため」を区別し、使い分けながら生きている。しかし使い分けながら生きていると、殊更「自分のため」にしている筈のことが、実際には喜びが感じら

    • 細部がないことで成り立つ理解について―漫画『GS美神 極楽大作戦!!』から探る創作内の説得力―

      1.創作は「添え物としての説明」があり得る   お化けだろうと宇宙人だろうと、物語では、作者の想像力が及ぶ限り何だって登場させられる。何なら物語であれば、現実とは異なる仕組みの世界を設定したって構わない。物語をどう創造するかは、作者にとって完全に自由な試みであると言えるだろう。ただし、物語の設定や登場させるものは作者が自由に決められるとしても、その設定をどう理解可能なものにするのかが、創作では必ず問題になる。  この問題について分かりやすくするために、一つ有名な漫画から例を

      有料
      300
      • 批判論が公開されるまでの舞台裏ーとあるM氏の懺悔録ー

        ※このノートは完全にネタです。先日公開した批判論(「自己表現における捉え返しと消し去りーー「「マイナス内包」としての性自認の構成」批判」)が完成するまでにどんなやり取りがあったか興味がある人だけご覧ください。 【登場人物】 ・M氏→世にもまれな令和の義侠心を持ち合わせた男。此度の戦犯。 ・T氏→同じく令和の義侠心を持つ男。聖人でもあり、此度の被害者。 M氏「クソッ、これではあんまりではないか!」 M氏が憂いていたのは、T氏についてである。T氏は自分の論文を火種にして、T

        • 自己表現における捉え返しと消し去り――「「マイナス内包」としての性自認の構成」批判

          はじめに 「自らについて表現する」とは、どのようなことだろうか――これは、 じつに素朴かつ難解な問いである。日頃我々はごく当然の様に自分について言語化し、それを自他ともに理解している。しかしその様な理解が成立するまでの過程において、我々がどの様に自分自身を(特有の)中身のある存在とみなし、それに意味を与えているのかまで考えるならば、その解明が一筋縄ではいかないことは、容易に察せられるだろう。ここで言う「表現」とは、対象を中身のある存在として捉えることを指す。その上で「自己表

          有料
          500

        「自分のため」にやるとは?ー『ピンポン』から探る喜びの原点ー

          キリストの救済、その一つの真実の物語

          「エリエリレマサバクタニ」 この世で最も悲痛な叫び声が、ゴルゴタの丘にこだました。悲鳴の主は、帝政ローマへの反逆者であり、のちに神の子とも呼ばれるイエス・キリストその人である。言葉の意味は「わが神、わが神、なぜ私を見捨てたのですか」。 しかしこの真意を理解するものは、イエスただ一人を除いて誰もいなかった。人々がキリストの真意を理解できなかったのは、単なる偶然ではない。この叫びには、我ら人類の父と母、アダムとイブが背負った原罪に由来する、おそるべき秘密がかくされていたのだ。

          有料
          300

          キリストの救済、その一つの真実の物語