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”意味を求め続けること”を手放したら、ほんの少しだけ、楽になった。

いつからだろう?

もう忘れちゃったんだけども、たぶん、中学生くらいのときから?

高校生のときは、もうそうだった。


そう、私は「意味をもたない」ことが、大嫌いだった。

やっても意味がないことに、モチベーションを全く抱けなかった。だから、学生の頃から、行為に対する「意味付け」を常に行ってきた。

例えば、勉強する意味。その中でも、英語を勉強する意味。哲学を学ぶ意味。通学に1時間以上かける意味、常に成績上位を目指す意味、大学受験する意味、友達とだべる意味、、、、。

意味を探して、モチベーションを保っていた。

意味がなさそうなことでも、無理矢理、有意義な意味付けを自分で行い、「~だから行うのだ。」と思い込ませていた。そして、大体の物事には、意味があると信じていた。そう信じていたかった。。


こんな思考回路が形成されていたお陰(?)で、大学時代は、なんだかとても失礼なことをしてきたと思う。


大学入学直後、しばらくバイトやサークルをして、華の大学生生活を楽しむつもりだった。が、いざそれが実現すると、なんだか人生の目的を失ってしまった気がして(大学受験は、高校時代の目的と化していた)、目標も緊張感もない、腑抜けな生活に感じてきた。バイトはお金を稼ぐことや経験を積むことに意味があったが、テニスサークルでは、練習以外に、気の合わない人とお酒を飲んだり、居心地が最高とまでいえない環境の中で過ごす意味というものを、見出すことが出来なかった。だから半年くらいでさっさとやめてしまった。

2年生になる頃には、せっかくの機会だから交換留学しようと決めたし、そのために何十万も投資して、英語の勉強にも励んだ。華の大学2年生の夏休みは、受験生のような生活を送っていた。塾とバイトの往復だったからだ。それでも、自分は満足だった。


普段は、女子同士の意味のもたない会話が非常に苦手で(時間がもったいないと思ってしまっていた)、避けてきてしまった。面と向かっては、断ることが出来なかった。その、たわいもないおしゃべりの時間は、他の有意義な時間に費やしたかった。一人でよく図書館にも行った。太宰治の本を読むと、どこか安堵する自分がいた。(なんて根暗!!)華の大学生活という幻想は、日本の大学ではなかった。


しかしその癖は、社会人になってから、だんだんと日常生活の大きな弊害になってきているのではないか、と思ってきた。


なぜなら、この思考は、幸福度を下げかねないから。


この思考は、私を散々、苦しめた!!(それはもう、白目剥くどころの騒ぎじゃない!)


まず、就活。どんな仕事に就くにも、人間が生活するにおいて、絶対不可欠な事業やサービスに携わりたかった。無くてはならないほど、存在意義のあるものだから。そんな風に考えていた。

今思うと、自分が心の底からやりたいことっていうのは、また別次元にあったんだろうなあ、って思う。でも、なぜか、自分の勝手な妄想の中で「~べき」に縛られて、「~したい」に目を向けられなかった。こわかったのだ。

数年、社会人生活していると、目の前の仕事に意味が見いだせないことに多々直面する。また、自分一人では、本当にちっぽけなことしか出来ないと思ったとき。この仕事が、果たして誰の役に立っているのか?分からなくなったとき。その行為の意味がわからない。でも、仕事だからサボるわけにいかない。


自分の中の「意味」が見いだせないと、途端に苦しくなるのだ。人生ってこんなものだったの?って。


「仕事=やりがいが大切」と思って、仕事に求める優先順位は、「やりがい・自己成長できるもの」と掲げて生きてきたけど(そう設定することは、良い面ももちろんある)、時には自分を苦しめてしまう、ということにようやく気が付いた。


そうだ、意味なんて無い。ただ、私は生きるために、今働いている。


意味なんて、深く考えちゃいけねぇ。と思い始めた。生活に必要なんだもん。生活のために働いてるんだよ。意味なんて、そんなねぇんだよ。


仕事に対する価値観や姿勢は、もちろん人それぞれであって良いと思う。ただ、別に、仕事だからと言って全てが尊いわけじゃないし、惰性でこなすことだってあるし、無駄なこともある。

全てに答えなんて、やりがいなんて、求めなくてもいいんだよ。

こういうもの、一つの見方であるということ、それだけです。でも、それで救われることも大いにあると、感じています。


どうか、自分で勝手に何かに縛られて、勝手に苦しむことがありませんように。

ここに、自分のためにも記しておこうと思います。


(おわり)

2020/05/09
















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